「知的で文明的であることは人間存在の核心ではない」という一節について
文脈
エニアグラムのトライタイプ、という性格診断(?)の説明文の中の一節である。それぞれのタイプに、長所と短所、成長の鍵となる気付きについて書かれていて、己の向上を目的にした体系だと推察している。
この一節が書かれていたのは、「哲学者」というタイプの説明の文章で、このタイプの天分は「真実を見出し、本質的価値は何かを知らしめることが天分」、一番幸せな時は「自分の直観力を使って他の人が人生の意味を見つける手助けをしている時」であると書かれていた。
天分というのは、他の人に最も効果的に価値を提供できる分野のことで、「知的で文明的であることが人間存在の核心であると思い込んでいること」が成長を妨げている、つまりその天分を発揮する抑止力になっている、ということだと思っている。
こころの故郷
この言葉も「すべてはモテるためである」という本の引用なのだが、自分に適度に自信を持ち、他の人と気持ちよくコミュニケーションをとるためには、「自分が何が好き」で、「自分が何をやりたい」のか、つまり、「自分の居場所」「心のふるさと」のようなものを持つことが必要であると書かれていた。
これは明らかに、「〜べき」というようなものではない。「〜たい」という自分の欲望を表している。人間存在の核心というのは、このwantに基づく何がである、ということを、タイトルの一節は示唆しているのではないだろうか。
考えてみれば、当たり前の事のような気もする。自分が自分のために生きてはならない理由などないだろう。あらゆる「べき」は、その根源に「〜が好き」「〜がやりたい」という純粋な欲望を持つことで始めて意味を持つ。だが、自分の経験を振り返ると、無自覚にその根源まで「〜べき」にすり替えてしまうことがある。そのような時は、周りの人のことも多く傷つけているのかもしれない。
尾崎豊
このことについて考えていると、彼のことを想起する。彼も人間の夢や自由について歌っていたが、若くして死んでしまった。
シェリーという歌に「愛すべきものすべてに」という歌詞がある。この歌詞がこれまで正直いまいちピンときていなかったのだが、これまで考えてきたことに照らすと、これは間違っているのではないかと思う。
彼の代表曲のタイトルは、「I LOVE YOU」だ。この曲が一番売れたのは、皆が彼の、自分の存在の核心についての気付きを、直観的に認めたからなんじゃないかと思う。