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長く生きていても、尊敬されることがない現代

なんとなく分かっていたけど、この記事を読んで確信が持てました。

不便な時代とは「経験がモノを言う時代」でもあったのだ。漬物などの保存食作りもホウキや雑巾の使い方も、不便の中で親から子へと受け継がれてきた長年の知恵の集積である。だから昔は老人が尊敬されたのだ。人は、ただ長く生きているというだけで一目置かれる存在になることができたのだ。

これはとても切実な話だと思います。分かっていたけど、改めて文章として読むと、現代において「年老いることの意味」が問われているように思えます。

昔は分からないことは村の長老に聞き、問題が起これば長老が解決してくれた時代がありました。それが今はどうでしょう?

年寄りはデジタル機器についていけず、昔の知恵なんてまったく役に立ちません。肉体的にできないことが増えるのは、昔も今も同じです。そこへ日常の機械操作すらできなくなったデジタル世界は恐怖の連続です。

ATMの出現だけでもドキドキしていた高齢者は、ネット社会、スマホ決済など扱えるはずがありません。

高齢者は不要の産物と化していき、邪魔者扱いされ、居場所を無くし、しかたがなく老人ホームへ入ります。そこは、別名「現代のうば捨て山」と言う人もいます。


何もしなくてよい生活は、生きる気力を奪う


老人ホームでは、ご飯は自分で支度することなく、運ばれてきます。自分の手で食べることなく、食べさせてもらう人もいます。食べ終わった食器を自分で洗うこともしません。昼間はいろんな楽しい行事が待っています。しかしそれは自らの意志で遊ぶことではなく、受け身になることばかりです。入浴介助もあり、自分でお風呂に入ることをしない人もたくさんいます。ベッドメイキングも自らすることはありません。当然洗濯もしないです。

自立した生活ができないから老人ホームに入るというのは分かります。しかし、何から何まで自分の手ですることを奪い取ってしまえば、本人は何もすることがなくなっていきます。することがなかったら、気力が無くなるのは当然のことです。


昔ながらの生活をすれば、自立して暮らすことができる


一方、アメリカの修道女たちが、アルツハイマーになっても元気に暮らしを全うしたという実例があります。

助け合いながら慣れ親しんだシンプルな暮らしを延々と続けることで、彼女たちは人生の最後の最後まで「自分にできること」を手にすることができたのだ。そんなふうに、老いたとてちゃんと「自分にできること」さえあれば、どれほど衰えても人は前を向いて生きることができるのだ。

デジタル機器のない、昔ながら慣れ親しんだ生活様式を保つことで、人は人間らしく生活できる実例です。デジタルについていく必要はないのです。年寄りは年寄りだけで集まって、昔ながらの生活をすれば、人生を全うできるという話です。

人生を全うするとは、何か?


老人ホームや高齢者施設に入居している高齢者は、本当に人生を全うした生活を送れているのでしょうか? もしそうではないと思われる高齢者がいるとしたら、それは不自由な生活を虐げられている可能性があります。

何もしなくて良い自由は、実は不自由であって、物のない不自由な生活が、本当の自由なのかもしれません。施設は、高齢者の楽しい余生を奪っている可能性があります。

主人公は自分だと主張する!


一人ひとりが主人公だと考えれば、年老いた人でも、人生を全うするためにどうあるべきか、主張する必要があると思います。もし主張できない状態にあったとしても、私たちが虐げるのではなく、どうしてあげるべきなのか、選択肢をもっと広げる必要があるように思います。

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★整体師/りょう★ピンピンコロリのいきかた(認知症予防と健康寿命を延ばす方法)
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