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ショスタコーヴィチの音楽 没後50周年

今年で没後50周年を迎えるドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906〜1975)。来年には生誕120周年を迎え、2025〜2026年はショスタコーヴィチイヤーとなることでしょう。現在でもよく演奏される作曲家が、この記事を書いているちょうど50年前ではまだ存命だったことはなんとも不思議な感じです。

ここではショスタコーヴィチの音楽を彼の生涯における重要な出来事とともに簡単に紹介していこうと思います。

ドミドリー・ショスタコーヴィチ(Dmitri Dmitriyevich Shostakovich)

1 前衛的な作風の初期、そしてプラウダ批判

最初期の作品群は調性がはっきりとわかる曲を書いていましたが、やがて前衛的な部分が前に現れるようになります。交響曲第1番の成功を収めたあと、ピアノソナタ第1番、交響曲第2番などの前衛的な作品を書いています。しかし、前衛一辺倒に染まったわけではなく、時には調性が明確な作品も遺しています。

交響曲第1番

交響曲第2番

ピアノソナタ第1番

そして、20代の頃に力作のオペラを2作遺しています。それが、『』と『ムツェンスク郡のマクベス夫人』です。『鼻』はその前衛性から当初は非難を浴び全く上演されなくなってしまいますが、現在では再評価されています。

そして、『ムツェンスクのマクベス夫人』はショスタコーヴィチにとって人生の大きな変化をもたらした作品と言ってもよいでしょう。当初は成功収め何度も上演されたこの作品ですが、スターリンがこの作品を観た時にその内容(不倫、強姦、殺害など)に不満を感じ、機関誌「プラウダ」にこの作品の批判が掲載されてしまいます。これにより『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は演奏されなくなり、ショスタコーヴィチの作曲としての地位も脅かされることになります。これがプラウダ批判です。ここではバレエ音楽の『明るい小川』も批判されています。

ムツェンスク郡のマクベス夫人

これによりショスタコーヴィチは粛清されるのを恐れ、初演予定だった交響曲第4番の初演を取り消すことになります。交響曲第4番は全3楽章で構成されていますが、それでも演奏時間は1時間という大作です。またこの作品にはマーラーの影響が現れており、オーケストラも彼の作品の中では最大の編成をとっています。すべてが短調で書かれており、暗い雰囲気が全体を包んでいます。第1楽章のフガートは演奏困難で奏者泣かせな場面です。

交響曲第4番

2 交響曲第5番の誕生、そして交響曲第9番の悲劇

ソ連における立場が危うくなったショスタコーヴィチでしたが、交響曲第5番を発表しこれにより彼は名誉を回復することができます。交響曲第5番も全楽章短調で書かれている暗く重い音楽になっています。特に第3楽章の悲痛さは初演時の聴衆がすすり泣くほどだったようです。またこの作品によってムラヴィンスキーとの交流も始まりました。

交響曲第5番

この作品は第4楽章のコーダのテンポが誤植され伝わってしまったこともあって、バーンスタインやショルティなどの演奏ではかなり速いテンポで演奏されていたこともあります。現在では彼らのようなテンポ演奏されることはありません。

バーンスタインによる演奏

交響曲第5番を作った翌年には弦楽四重奏曲第1番が作曲されています。交響曲と並んでショスタコーヴィチの創作において重要な作品群である弦楽四重奏曲は最晩年に至るまで作曲が続けられています。

弦楽四重奏曲第1番

そして彼にとって大きな出来事を経験する作品群が作曲されます。第二次世界大戦のさなか作曲された交響曲第7番、第8番、第9番です。これらは戦争をテーマとして作曲されており、第7番は比較的好評に終わったものの、第8番は戦争の内面に潜む悲しみを強く含んでいることから暗すぎるという評価を得てしまい、政府の反応も良くありませんでした。

交響曲第7番

交響曲第8番

そして問題発起点となったのが交響曲第9番でした。戦争の勝利を祝うために作られた作品でしたが、これが政府の大顰蹙を買うことになります。聴衆の反応はそこそこ良好でしたが、ベートーヴェンのような交響曲第9番を期待していた政府にとっては、ショスタコーヴィチの交響曲第9番はあまりにも軽すぎたのです。この作品は全5楽章からなるものですが、ディヴェルティメント風の作品で演奏時間も30分にも満たないもので彼の交響曲の中では軽妙洒脱なものだったのです。これによりショスタコーヴィチはジダーノフ批判に追い込まれ、再び作曲家としての地位が危うくなってしまいます。

交響曲第9番

ジダーノフ批判を受けた1948年にモスクワ音楽院、レニングラード音楽院の教授の職を解任されるなど経済的にも厳しい状況下に置かれます。またこの時期に作曲されたヴァイオリン協奏曲第1番の初演を控えることになります。

ヴァイオリン協奏曲第1番

そしてショスタコーヴィチは名誉回復のために『森の歌』を作曲し名誉回復を成し遂げましたが、彼にとって大きな屈辱となってしまいました。

1951年にはバッハの平均律クラヴィーア曲集に倣って、24の前奏曲とフーガを作曲しています。

24の前奏曲とフーガ

そして1953年にショスタコーヴィチは新たな転換期を迎えます。

3 スターリンの死、そして晩年

1953年にスターリンが逝去しました。その後ショスタコーヴィチは交響曲第10番を発表し、言論の自由の制限が一時的に緩和した雪どけの時期に発表されたこの作品は賛否両論を巻き起こしました。しかし、現在では彼の交響曲の中では代表作となっています。音楽的な特徴ではDSCH音型というものが使用され第3楽章から現れ始め、その後は多用されることになります。

交響曲第10番

その後はロストロポーヴィチのために作られた2作のチェロ協奏曲、オイストラフのために書かれたヴァイオリン協奏曲第2番、ヴァイオリンソナタを作曲しています。これらは2人の奏者との出会いがなければ生まれなかったかもしれない作品たちですね。

チェロ協奏曲第1番

チェロ協奏曲第2番

ヴァイオリン協奏曲第2番

ヴァイオリンソナタ

交響曲の発表には相変わらず事件がつきまといます。交響曲第13番はその内容(ウクライナの峡谷バビ・ヤールにおけるユダヤ人大量虐殺およびソ連に反ユダヤ主義があったとされる告発)から初演時には政府からの嫌がらせが続きました。

交響曲第13番

また交響曲第14番にいたってはリハーサル中に共産党幹部パーヴェル・アポストロフが倒れその1ヶ月後に死亡するということも起きました。この作品は死を題材にしていたこともあり、ショスタコーヴィチの祟りだと噂されたこともあります。

交響曲第14番

晩年の音楽の特徴としては体調の悪化から死を意識するようになり、テンポが遅い作品の増加、他者の作品およびに自作の引用、十二音技法やトーン・クラスターの使用など苦渋な作風が多くなっていきます。また長調の作品にでも暗さを感じる作品が多くなってきます。

最後の弦楽四重奏曲となった第15番では全楽章アダージョとなっており、全てが変ホ短調書かれているので特に暗い雰囲気をまとっている作品です。そして最後の作品となったヴィオラソナタの校訂を終えた4日後、ショスタコーヴィチはこの世を去ります。

弦楽四重奏曲第15番

ヴィオラソナタ

4 おわりに

彼の音楽は正直言ってわかりやすいものではありません。理解するまでは時間を要するものが多いので何度も聞く必要があるでしょう。ショスタコーヴィチを演奏する場合は、彼の音楽とソビエトの歴史、およびにソ連政府とショスタコーヴィチの関係を深く学ぶことでより良い解釈を得ることができると思います。この機会にぜひ聞いてみてはいかがでしょうか?


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Ryo Sasaki
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