⑱匂いと身体的記憶の不思議な関係
おはようございます。
昨日の夕方、散歩している時のことだった。
近所の神社の周りをいつものように歩いていた。
除草機?というのかウィ――ンて鳴らしながら刃が回転するやつを持って除草作業をしているおじさんがいた。
暑い中、しかも世間はお盆休みやのに、ご苦労様です。
と心の中でつぶやきながら、作業中のおじさんの後ろを通り過ぎようとしたとき、除草機のエンジンの排気が顔に当たった。
その瞬間、東南アジアの記憶がフワァっと目の間に現れた。
おそらく、そのエンジンの排気の匂いが、東南アジアにはびこるバイクのエンジンの排気の匂いに似通っており、それで東南アジアを思い出したのだと思う。
不思議な感覚だった。
なんの脈絡もないタイミングで、考えていなかった記憶がフワァっと蘇ってくるという現象。
地球上のほとんどすべてのオトナが一度は体験したことがあるだろう。
脳の中の東南アジアの記憶を司るニューロンがエンジンの排気の匂いに刺激され発火したことによって、想像上の映像として蘇ったのだろうか。
現在の科学的な説明でいくとこういったところになるのだろうか。
わからないけど、それにしても不思議やなあと思った。
どこの国でどの時間でどの場面でなにをしていたか、といった具体的な場面ではなかったが、漠然とうっすら東南アジアの喧騒が頭の中に浮かんできた。
エンジンの排気の匂い
暑くて気怠い感じ
バイクがブンブン行き交う音
また春の芝生の匂いや雑草の匂いを嗅いだ時には、よく小学生や高校生の頃サッカーをしていた時の記憶がよみがえる。
試合の合間に芝生で寝転んでいる時
試合終わりにダウンしながら、自分の汗の匂いと春の草の匂いが入り交じり、少し不快だが癖になりそうなだなと感じた時
頭で覚えようとするのではなく、身体で覚えなさい
とよくわれる。
頭でどれだけ頑張って
「覚えよう、覚えよう」
と思っても、しょせんすぐに消え去る記憶に過ぎないし、変に体力を使ってしまう。
感覚を通して、感じたものはおそらく身体に記憶として刻み込まれる形で残り、何かのキッカケで思い出されるものなのだろう。たぶん。
そのためには、頭を使って頑張ろうとするのではなく、できるだけ身体を開放し、五感を常にオープンに開け放った状態でいることが望ましい。
覚えよう刻み込もうとするのではなく、ただ感じる。
身体の記憶にも、甘いものもあれば、苦いものもあるし、甘酸っぱいものもあるかもしれない。それらを自分で規定した形では記憶できない。また、強引に引っ張りだした思い出はどこか鮮度が低いように思う。
試合に負けたなどといった、心が揺れ動いた大きな瞬間ではなく、本当に些細な、だけど感覚を通した瞬間の方が、記憶の鮮度がいいのが不思議である。
例えば、高校3年生の最後の大会で悔しい負け方をし、引退が決まった瞬間がある。たしかに悔しかったし、今でも思い出すことはできるのが、どこか、頭の中での修正がなされているように感じる。美化されているのか、劣化されているのかはわからないが。
しかし、匂いに起因する記憶には鮮度がある。浮かぶ情景自体は具体的ではないのだが、身体を通した感覚的な部分で共振するような感じ。それは、どこか心地がよい。
手の加えようのない純で素直な記憶だからだろうか。
他人や世間といったものの介入を一切許さない、孤独で自己中心的な記憶だからだろうか。
嗅覚のみならず、感覚の表現と言うのは非常に難しく、具体的に言い表すことができない場合が多い。
~のような感じ、やオノマトペ
といった形容の表現を用いなければならず、感覚をダイレクトに言葉に言い表すことはほぼ不可能に近い。
目に見たものは、今では写真を見せれば大方イメージは伝わるが、言葉で説明するとなると、難度がぐっと上がる。
しかし、匂いや音というのは目には見えない。味も肌感覚もそうだ。
ゆえにさらに抽象的で説明が難しくなる。なので他人との共有が非常に難しいものとなる。
よって、必然的にその記憶(その感じ)というのは、孤独で自己中心的なものとなる。
共有ができないものとしてあると同時に、それは自分だけのものということになる。
だからこそ、身体は身体を通しての記憶を自分のものとして大切に残すのだろうか。
わからない。
また他者と親交を深めるためには、共同作業をすると良いとよく言われる。
これは、匂い・音・肌感・(休憩中に取るランチの味)といった似たような体験を身体の感覚を通すことで、孤独自己中心的記憶を他者と共有・共振することができ、お互いに心地よい関係を築けるということなのだろうか。
わからないけど、そんな気もしないではない。
身体は本当に奥が深い。
まだまだ何も知らないが、
実に、面白い。