②書くことについて語る2

昨日の続き。

奥の細道の話からか。

なんで奥の細道を書こうと思ったのか、というのは正直わからない。なんとなく、「月日は百代の過客にして、行交ふ年もまた旅人なり。~~~」という序文の冒頭は覚えていて、好きだったというのはある。特に意味するところや、具体的にこれがいい、と思ったことはないが、口に出した時の流れと耳に触る感覚が心地よいように感じていたのだと思う。

そして、ある日何となく、冒頭の先ってどんな文章で、どんな内容だっただろう、と気になり、ネットで調べ、筆ペンで紙に書いてみた。

月日は百代の過客にして、行交ふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老ひを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅人死せるあり。予もいずれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋の蜘蛛の古巣をはらひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神のものにつきて心を狂わせ、道祖神の招きにあひて、取るもの手につかず、股引の破れをつづり、笠の緒つけかえて、三里に灸すゆるより、松島の月先ず心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別所に移るに、

草の戸も   住みかはる代ぞ   ひなの家

表八句を庵の柱に掛け置く

『奥の細道』松尾芭蕉


と、急に書き出したくなったので書いてしまった。

とても心が安定するというか、当時の旅へ駆られる想いを丁寧に、正直に表していると思った。僕も、旅は好きで、道祖神の招きにあひて、といった旅に誘われるような感覚は少しわかる気がする。

ます、この奥の細道の序文を、声に出してみた。最少はもちろん、つっかえながら、思い出しながらの作業になるのだが、暗唱できるようになると、リズムが出てくる。そしてこのリズムというのが、生きていく上で、本当に大事なことなんだということに気付いた。それは、歩く・走るという動作、書くという動作、人と話すということ、、、、、など、日常におけるあらゆる動作の根底に流れて、生活を支えている。現に今も文章を書いているが、一定のリズムで、頭に浮かんでいるものを、文字に書き出している。少しづつ止まることはあるが、できる限り、手の動きに任せるようしている。

この奥の細道が、本当に素晴らしいのは、暗唱できるようになると、リズムが勝手に身体にしみこんでくる、ということだ。そこに、文章の意味性などといった内容は全く関与しない。この文章が持つ美しさとは、スムーズに流れていくこと。口にだすときも耳にするときも文字に書き起こすときも、いずれにおいても、この美しさには普遍性がある。これが昔から現代まで読み継がれる所以ではないかとも思う。この人間の感覚に直接訴えかけてくる、心地よさのようなものは、時代を越えて、老若男女問わず、身分階級問わず、万人が感じ取れるものある。だからこそ、古典となりえているのだと思う(もちろん、人生を旅になぞらえる、といった内容も、胸をうち、心を穏やかにしてくれるような安心感がある。昔の人も同じだったんだなーって)。

平家物語や方丈記など、日本の古典文学とよばれるものは、文章のリズムの美しさという普遍性が、共通して、内包されている。
文章のリズムがいい=間がいい、ということだと、おそらく斎藤孝先生か誰かの本で読んだことがある。間がいいとは、行間が読めるということで、空気が読めるということ。これは、日本人が最も得意とすることのはずだった。相手とのコミュニケーションや、生活の中での、小さな機微を見逃さず、空気を読むことができた。しかし、現代になるにつれて、その空気を読めるという特性はいけない、という否定的な意味でとらえられようなんった。確かに、自分の意見を言うべきところで言わない、などはあまりいい事とはいえないかもしれない。しかし、空気を読む、というこの言葉の意味するところが少しずつずれてきているのは確かだと思う。行間を読む、リズムを知る、とは、どうすれば物事がうまくスムーズに流れていくのかを体感で感じ取る、ということだと思う。それは決して、頭で考えるのではなく、身体で感じ取るのである。

この体感で感じ取るということを、最近は、ずっと意識して、考えている。


と、なんか考えっぽい事を書いた。


で、なんで奥の細道を暗唱しだしたかというと、(話飛びまくりやな、、)最近は家族以外、ほとんど人と話す機会がなくて、久しぶりに友達と会ったりしても、なんか微妙にコミュニケーション取りにくいなと感じることがあって、でもそれは実はこれまでもずっと感じてた違和感で、自分でもそこまで人と話したり、人前で話したりすることは苦手じゃない、と思ってたけど、いつからか(22、23くらいくからかな)上手くコミュニケーションできてるかわからへん状態になっていってた。で、まあ、いろいろあって、今年の1月~3月はほんまに絶望の淵にいて、で、4月からは人とほぼ接触してない生活を送ってて、コミュニケーションの仕方を完全忘れてしまってて、一種の焦りのようなものがあった。今思うと、この焦りなようなものは、これまでの人生で常にまとわりついていて、緊張状態がずっと続いていた。

と、この話に関して書き出すと、めちゃくちゃ長くなりそうやから、またまとめよ。


とりあえずは、4月からは日常生活の中で、徹底的に自分の身体を見つめなおす、ということをやっていて、その中で、どうやって人と話してたかとか、なんで喉つっかえる感じするんやろうとか、なんか水飲む時ちょっとしんどいな、とか歌う歌うだけでこんな息切れせんかったよな、とか、それ以外にもいろいろ自分の身体に関して、考えていて、特に多かったのが、喉とか言葉にするといった、口周辺に関することやった。で、いろんな本参考にしたりしながら、ふと奥の細道を書いて、読んでみよう、ということになった。と思う。



全然書くことについて語ってないな。


てか、語るのにも、こう考えた背景とか前提みたいなもんを一回書き出してしまった方が、楽かもしれへんな。

自分の文章のリズムの汚さに驚く。

松尾芭蕉にどやされる。





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