比叡山に籠ってみた
何週か前の週末、山に篭っていた。
比叡山延暦寺で「寒行」という一般人向けの修行に参加してきたのだ。
行のダイジェストを紹介する。
朝は5時に起きて座禅をする。
ひたすら写経をし、説法を聞きお堂を巡る。
食事中は音を立ててはならない。
精進料理なので肉類は出ない。
齢29にして湯葉のありがたみを知る。(湯葉はほぼ肉である。)
食べ切ったら沢庵を使って食べ残しをぬぐい、お茶で流し込む。
体裁としては修行なのだが僧侶ほど厳しく扱われるわけではない。どちらともつかない緩やかな束縛が続く。
おおよそ1時間ごとに定められたスケジュールを特に何もすることができない短い休憩時間を挟みながら淡々とこなしていく。
しばらく忘れていた義務教育を思い出す。
一緒に参加した方々は自分よりかなり年上の人たちが多かった。
自分は初めて参加したのだが、最も多い方だと今回で15回目の参加になるらしい。
参加者同士は交流しないが、立ち居振る舞いで牽制しあっている。
寒行の参加者は全員決められた羽織を着る。何度も参加されている方が、羽織の襟を紐などを使ってデコると玄人感が出る。
行の間に読むお経は配られた冊子の中に印刷されているのだが、中には印刷されていないお経もある。それを暗唱していると玄人感がでる。
お経を読んでくださる大物感のある僧侶が、まだペーペーだった頃の話などをすると玄人感が出る。
移動中、推し僧侶について語ると玄人感が出る。若い頃は空海の才能に憧れていたが、年を取ったら最澄の魅力がわかってきたなんて話をしている。
僧侶との座談会というイベントが企画されているのだが、どれだけニッチな質問ができるかの勝負が行われる。史実に沿ったような、僧侶にだけ伝わるような質問ができると玄人感がでる。
知らない世界の知らないマウントの宝庫だった。
寒行。
面白いか面白くないかで言えば、面白くはなかった。
これは、自分だけの感想ではない。
写経の中休憩でお茶を飲んでいた時、おばちゃんが連れのおばちゃんに「(写経会場に)戻りたくないね」とこぼしていた。
マジかよ。ブルータス状態である。
では彼ら、彼女らはいったい何をしにきているのだろうか?
思い出したのは大学受験のことだった。
自分が受験期に最も苦しかったのは、試験が終わってから合格発表までの間だった。
どれだけ不安に駆られようが、もうこれ以上合格に近づく努力をすることができない。
滑り止めで受けていた大学は合格していた。後期に向けて勉強をする気にもならない。
神頼みをしたところで、結果が変わらないことは知っている。とにかく時間を潰すために、姉が一人暮らしをしている名古屋に1人、旅行に行った。
あの体験に似ている。
人は、自助努力によって人生を覆すことができないと判断した時、人生の最終局面を迎えるのだろう。
自分は今、写経をして徳を積むよりもすべきことがある。
写経をしながら、ずっとコードを書きたいと思っていた。
こんなに忙しいのに、俺は何をしているのかと。
ただ、40年後の自分にとってはどうだろうか。
誰も知らない死へとただ向かっていく時間。
自分自身の経験が今後の人生にもうフィードバックされない時間。
すでに時代遅れになっている自分の経験に学ぼうとする若者が存在しない時間。
人生をやり尽くした先の余剰が、
あるいは変え難い未来が見えすぎてしまったら、
それが宗教の時間なんだと思う。
何もできないことほど大きな苦痛はない。
年をとって、肉体的に何かを生み出すことは難しくなろうとも、精神的には何かをめざすことができる。
「Let's 仏」
目指すべきものがあるということはどれほどの救いだろうか。
権威性によって保障された、疑いづらく永遠に達成しえない目的を作る。宗教、めちゃくちゃでかい課題解決だ。
自分の老後のためにも、歳をとることをポジティブに捉えられるようなサービスもいつかやれたら嬉しい。
少なくとも40年はこの修行にはいかないが、おもしろい休日だった。