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消えつつあるものと「異な者」への向き合い方

読んでいないのに感想を書くって、言葉があるんでしょうかね。

はじめに

今日のお題は朝井リョウの作家生活10年を記念した書下ろし、『正欲』についてです。

朝井リョウさんはデビュー作の『桐島、部活やめるってよ』が大きな話題になり、のちに映画化されたのを観た記憶があります。大学時代、彼の感性は私が感じるもの、そのままでした。小説も、よみました。就活のタイミングで『何者』が出版され、その洞察眼には、感心というより、戦慄さえさせられたものです。私より1歳上と文字通り同世代。そんな彼の新作に至るまでのおはなしです。まだ買ってないんです。でも、今回は珍しく、単行本で買ってしまいそうです。

消えつつあるもの

先日、打ち合わせがあり、永田町に足を運んだ。

少し打ち合わせまでは時間がありそうなので、どこかで時間をつぶしたいが、カフェが、みつからない。いやあるのだが、長居して遅れてしまいそうなのであそこはパスだ。

本屋は、本屋はっと。おっ、あった。都道府県会館の地下に、改造社書店。懐かしい名前だなぁ。どんな本が置いてあるんだろう。30分ほど時間がすごせて、阿川弘之の「提督三部作」が置いていたりしたら最高だよな。

十年は棚に並んでいるだろうという本が日に焼け、独特のにおいをもって迫ってくる。予想以上だ。これはいい。

揃えもよかった。古き良き時代を思わせる本屋で、レジ横の壁には各出版社の電話番号がチラシの裏に書きつけ、張り付けてある。

ただ、探していた提督三部作(正確に言えば欲しかったのは『米内光政』と『井上成美』)はなかった。でも、空間がいい。日に焼けた奈良の古刹案内を手に取り、会計へと向かう。このおじいさんなら聞いてもいいだろう。「提督三部作」はありそうですか?と。

店主のおじいさんはよそうしていたもの裏切らない人だった。話は阿川弘之から宮尾登美子へ、三島由紀夫から高橋和巳、桑原武夫、尾崎秀実へと飛びながら。話題の中心は常に「本はなくなると忘れられる、忘れられると思い出しようもなくなる」というもの。まぁ、無理もないといえば無理もない。現代人が一日でふれる情報量は江戸時代の一年分ともいう。今自分もこうしてあなたに江戸時代の何日か分の情報量を詰め込んでいる。

店主のおじいさんはそうとは言わなかったが、自分には「本当に大事なものも、一度見失ったら最後」という、書店主の叫びにも聞こえた。彼が長年つとめていた改造社書店の丸の内店は随分前にたたんだそうだ。今は、この都道府県会館の地下で細々とやっている。

そろそろちょうどいい時間、お会計だ。占い師の持つガラス球を半分に割ったサイズの拡大鏡でおじいさんがゆっくりと数字を追っていく。

おっと、おいていたものを全部買うにはオアシが若干足りない。あとで戻ることを告げると、おじいさんは「久しぶりに本が好きな若い人に会うことができてうれしいよ」と、今月号の新潮社『波』を渡してくれた。え、いいの?ぼく普段、アガワの連載エッセイをネットで読んでいるだけだけど。

うやうやしくおしいただいて、少し足早に打ち合わせに向かった。

こうした店ももう、そのうちなくなってしまうのだろうという気がする。だったら記憶に、そして可能なら記録に、刻み込むしかない。そう思いながら。

「異な者」への向き合い方

打ち合わせは終了、お金をおろしてふたたび書店に向かう。預けていた二冊のお会計を済ませると、おじいさんがひとこと。

「あのあと、新潮社に問い合わせたんだけどさ、提督三部作はまだ在庫あるってよ。よかったね。」

そうか、大量の電話番号はその場で在庫を確認するためのものだったんだ。

「ところで、電話を受けてくれた女の子が若くて、タイトルを読むのに苦戦してたみたいで」
「きっと米内をヨネウチと読んだんでしょう(この調子じゃ成美はナルミだな、でもその子、安田成美も知らないかもな)」

平成生まれとは思えない?
言われ慣れっこです。当人昭和65年生まれを自称しております。

さて、今日の仕事もこれで終わりだ、永田町のエキナカのカフェでスマホを充電しつつ、いただいた「波」でも読むか。と、その前に、スマホを、と。

なんだかとんでもないものが入ってきたので幻滅した。この媒体で現在炎上している、「ティファニーで朝食を(略)」というPR記事だ。眩暈さえした。最初の数行で見る気も失せた。How disgusting.

翌日あたりだったか、フォローさせてもらっている方が本人のご専門から、非常に的確な批判があったので、ここで共有させてもらい、このは件以上。

そうだ、「波」を読むんだった。スマホをそっと置き、読み始める。

巻頭特集は冒頭の朝井リョウ『正欲』について。西加奈子がエッセイを寄せている。

私は、美しい言葉が好きだ。そのうちの一つが「多様性」だった。(中略)「多様性」という言葉を使う時、私はどこかで、気持ち良さを感じていたのではないだろうか。

先日も似たようなことを書いたが、人間は「異な者」に出会うとき、既存の概念か、既知の語彙の中でそれを消化しようとする。そうしないと、気持ち悪さに耐えられないのが人間の弱さで、われわれはつい惰性でそこと向き合うことから逃げようとする。

どうやら、本書は「性欲」についての”多様性”と、理解しえない他者とどう向き合うかについて述べてあるようだ。

性欲はまだわかりやすいほうかも、いや、わかりやすく見えるからこそかえってわかりにくいのかもしれない。

じゃ、先ほどの文脈で語られた西成の「貧困」はどうなのか。わかりにくい、だからこそわかりやすく語られる、のか。他にも「多様性」が出てくる場面って、日常生活で、あったよな。

あぁもう、書きながら混乱してきた。

今になって思い返す。あの、平河町のビルの地下の本屋にはこの本、置いていたのだろうか?おいてあったとして、自分は買っていったのだろうか?

答えは明確に、否だ。多分あのおじいさんとはもっと気軽に話ができる、それがよかったんだと思う。

最初にことわったとおり、自分はまだ本書を読んでない。実際に読んでみて、何を思い、何を思わないのかが、非常に気になる。正直に言うと、気になってしょうがない。だからきっと、買うのだろう。それも明日にでも。

そうだ、中央線沿線にいい書店員がいるお店がいた。小さなお子さんのいるお父さんで、レジでの会話でこれを勧めてくれたんだった。すぐ買って、10人くらいに奨めた。良書だった。『正欲』は、彼から買おう。そうしよう。

ということで、読み終わったら、また読書感想文を上げられるのかしら。


おまけ

「異な者」という言葉は、その昔、ごくごく幼少期に音から入ったアルバム、平松愛理の「redeem」に収められている「恋は異な者」からとっています。あのアルバムでは「虹がきらい」が一番好きかなぁ。なんだかんだ。

今調べたら、redeemって「償還」って意味なんですね。へぇぇ。

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