楽しみ消費することで失われていくこと。守られないこと。
とある日の夕暮れ時。
離婚して別居している娘との面会日である。その日の昼に娘を迎え、二人でボーリングやカラオケをし、飯を食い、離婚した元妻の家に娘を返す。
それが娘と会う日のルーティーンなんだが、夕暮れ時の1時間程度、いつも空いた時間が生じてしまう。
まぁ、車で流しながら娘の近況を聞いたり、くだらないお喋りをして、その日の締めくくりをするのが常なのだが、その日はふと電化製品を買う用事がありショッピングモールに立ち寄った。
夏休みの始まりである。ショッピングモールの電化製品横には催事場が出来上がっており、小中学生と思わしき一団がエイサーを演舞していた。
俺と娘は電化製品屋に用があるから、演舞場の横を通り過ぎた。娘は露骨に耳に指を突っ込みエイサーの演舞を自ら遮断した。
電化製品店に入ってから、目当ての商品を見つけた後に、娘が訊ねてきた。
「なんで沖縄県民はやたら“ダイナミック琉球”をやりたがるの?あれ、私は好きじゃない」
その言葉に思わず大爆笑した。俺もその傾向が好きじゃないからだ。
娘は金管バンドクラブに所属してパーカッションを担当している。その視点から、“ダイナミック琉球“の単調なリズムと、にもかかわらずエイサーの演者の太鼓が揃わないことに不満で、さらには曲自体が嫌いなのだと言う。
前述したが俺は娘と別離しており、週に一度しか面会をしていない。一緒にいる時は俺の好きな音楽を流す。限られた時間にわざわざ嫌いな曲を流してその曲を批判するような真似はしない。
だから、こちらが言葉にも出したことのない“ダイナミック琉球”という、曲に対し娘が俺と似た違和感を感じたことに対し驚いた。それと同時に、この違和感は結構な人が感じているのではないか、という気にさせられた。
というのも、“ダイナミック琉球”という曲の歌詞の内容から、音楽性に至るまでがマーケティングリサーチ的な押し付けがましさでなりたっているからである。
娘に俺が説明した内容を以下に記す。
沖縄には神歌があり、民謡があり、念仏踊りとしてのエイサーがあり、それぞれには地域信仰や習慣がある。それぞれ独特の文化があり、それらの集合体が沖縄の音楽だ。
沖縄には組踊という宮廷音楽があり、それは日本の歌舞伎や能であり、西洋ではオペラだった。
それを現代版組踊とする流れがあり、そのこと自体は昔の文化を現代版にする試みで、素晴らしいと思う。
しかし、出来たものには現代しかなく、過去の組踊の音楽様式が残されていない。特にリズムが完全に沖縄音楽ではない。言葉の音数も八八八六という、琉歌や民謡で守られてきたものから完全に逸脱している。
そして、何よりも海や空や風など、自然の素晴らしさなんか当たり前のことで、それを「島の素晴らしさ」として唄うが、そんなの沖縄でなくともいいだろ、っての。観光客目線でしかない。
“おもろさうし”のような王国の根幹をなす神歌のような要素もない。民謡で歌われる地域の特性もない。エイサーのような単純な先祖崇拝もない。
何故念仏踊りとしてのエイサーがあるのか?それは先祖へのリスペクトである。カッコよく踊るために始めたわけではない。先祖への鎮魂である。
言葉が平坦な上に、音階、リズムが西洋音楽に支配されている。だからノれる。けれど、それはエイサーじゃないんじゃないか?“クーダーカー“とか、過去の名曲からかけ離れている。
伝統から離れているからもてはやされるのはわかるけど、エイサーって基本、死んだ先祖たちが主役であり、踊り手とか観る人のための踊りじゃないからな。
沖縄のあらゆる文化はこの“わかりやすさ至上主義”によって駆逐された。沖縄学の祖である伊波普猷ですら、「沖縄の因習はラジオを普及させ標準語と日本人的な文化を垂れ流すことで駆逐される」と予言していたのだから。
これらの俺の挙げたマイナス要素は、だからこそ、この曲が受け入れられる理由にもなっているのは前記した。伝統から離れているからもてはやされる。伝統を知らない人にとって、昔を知るより、昔から離れたものの方がとっつきやすいのだ。酷い言い方をすれば、中身が無ければ良い。
現在の沖縄に住む人々は、過去の音楽に対して無関心である。盛り上がれる手軽なものが欲しい。けど、過去のエイサーの音楽は“言葉の意味がわからない”“リズムがノれない”。
昔の音楽を知らないし軽く考えるから、易々と昔の伝統から外れた曲をあっさり受け入れてしまう。だから、中身は薄っぺらいほどいい。「青い空と青い海最高」みたいな。
THE WALTZのローリーは「青い空と青い海だけじゃない」と“沖縄ロックンロール”で歌ってたけどね。
かく言う俺もそこまで民謡や古典琉球音楽に詳しくはない。若い頃関心なかったしね。しかし、歳をとると、自分のその根無し草というか、音楽的なアイデンティティが西洋や日本である悲しさから、少しづつラジオなどで勉強するようになった。
娘とダイナミック琉球を聴いた前日に話は遡る。東京から来た友人たちと栄町で飯を食った。その後、なかなか空いてない人気のビール屋に入ることができた。
マスターはほろ酔い以上に出来上がっていたけど、ビールを注ぐ姿勢はサーバーの後ろの柱に背もたれにピシッと固定してビールを注ぐ。
この店はオープンして一年くらいしかたってないのに、マスターがもたれる柱の塗装は剥がれていた。
素晴らしい所作だと思ってマスターにそのことを話たら、「柱が凹むようになるまでやりたいです」と苦笑していた。
ふと、カウンターに見慣れぬラベルだが、飲み慣れたウイスキーの名前を見つけた。それは、バカみたいにピートというヨード臭を凝縮させた、アイラ島の伝統的なウイスキーだ。
久しぶりにそのピート臭を味わおうと思った。
「青いラベルじゃないから⚪︎⚪︎と気付かなかった。それください」
そうするとマスターは苦笑いし、「お客様、青いラベルの頃と味変わりました。違う味になってます。それでもいいですか?」と聞いてくる。
変わったのなら、どう変わったのか知りたくなる。それで飲んだ。ロックで。
ピートはある。しかしクセが弱くなった。そのおかげでバランスは前より確実に良いのだ。
バランスは良い。しかし、それは個性の喪失だ。
「美味いけど、これ、マッカランをやろうとしてんの?」
マスターにそう言った。彼は苦笑いし、何も言わなかった。その後、二人で企業として誰もが買う商品にする努力は認めるし、“バランス”はいいけど、失われた個性の大きさについて愚痴を語り、俺は二杯目をストレートで飲んだ。思ったより酔っ払えなかった。
翌日、ショッピングモールの帰りに娘に100年以上の伝統から変わってしまったウイスキーの味の話をした。取り戻せないことは残念だ。それは音楽にも似ている。
伝統から外れてみんなが楽しめるものが生まれる。それは間違いじゃない。でも、昔を捨て去るのは勿体ないではないか。
しかし、ウイスキーと違い音楽には録音された音源がある。
琉球古典音楽の照喜名朝一が沖縄のジャズグループ“ナインシープス”とセッションした「かぎゃでぃ風節」も実はApple musicにあったりする。
娘に照喜名朝一の歌声のなんとも言えない艶やかさと、“間”について語っていたら、熱心に耳を傾けているものと思いきや、グッスリと寝ていた。
よく眠る娘ではあるのだが、そういう娘を覚醒させるくらい話し上手になりたいものだと思った。
ちなみにこの文章はApple musicからかき集めた民謡聴きながらテンション上げて書いているので、筆禍舌禍の類いは行き過ぎた郷土愛と思いはお許しください。
そして、ダイナミック琉球が好きな方々に不快な思いをさせてしまうこと前提であることも含めて謝罪します。それでも書かなければいけないと思い筆を取った次第です。