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ミッドサマー誤解問題についてメスを入れる試み

それは私にとって斬新な発見であった。

アリ・アスター 監督の映画『ミッドサマー』のレビューが思いの外低いのである。

私は以前,好きな映画をただ羅列するだけのまとめ記事なるものを書いた事があったりもしたが,そこでもこの作品をピックアップしている程には思い入れのある作品なので,勝手に世の中の大多数の人間も高く評価しているだろうと,鬼バイアスのかかりまくった世間認識をしていたわけだが,ココ最近ようやくその魔法から目覚め,現実を直視した。

どうやら内容の根底にあるテーマとその表現形式の複雑性が高すぎて,正確に咀嚼できてなかったり誤解してる人が多いようで,「全然面白くないし,よくわからん笑」「頭悪すぎて考察できん」「こういうの作る人って変態なんだろうな」といったようなフワフワした意見が飛び交っている。

これを私は"ミッドサマー誤解問題"と命名することにし,好きな作品は積極的に擁護すべし!という私のエゴ全開のイデオロギーに駆動された結果,『Filmarks』に厚かましくも私的な解説文を投稿してみたが,その拡大版を改めてnoteにも投稿してみようと思い至り今この記事を綴っている次第だ。。

素人ながらの拙い解説だが,ミッドサマーを見ても「つまらん」「よく分からなかった」と感じた方,あるいは普通に私と同じく作品のファンの目にとまれば幸いである。

原始社会における有機的繋がり

インセスト・タブーは本来,(集団外ではあるが一定の《交叉いとこ》に限定されている場合には)集団間で女性の交換関係が超世代的に維持されることによって,社会全体の有機的結合を強めることが目的であるとするのがレヴィ・ストロース の『一般交換』。

つまり原始社会においては結婚や性交渉は,女性を媒介とした"交換"に他ならないのである。

その一方で,支配者の近親婚は,むしろ禁忌(タブー)を超越する存在としてその神聖さを強調し,王室の血筋の純粋さを保つために行われたと解される。
──これが作中では意図的な近親交配によって生まれた知的障害者を"人間の認識による曇りがなく真理を眺められる神聖な存在"としてダブルミーニング的に崇められているのはなかなか深い──

実際,ユダヤ教のようにインセスト・タブーが宗教上のものとして扱われることもあるが、ゾロアスター教のように近親婚がむしろ宗教上最高の美徳として考えられていた事例も現実にある(フヴァエトヴァダタ)。

しかし依然として通常の共同体員はインセスト・タブーを守ることによる成員の交換を求められる(ホルガ村の成員だけで交配を繰り返すことはできない)ため,外集団の構成員としてクリスチャンが一方的にその責務を負わされたわけだ。

作中での表現がグロく狂気的で,不気味に描かれているため、"ホルガ村はイカれたカルト共同体で,ダニーやクリスチャン達はその被害者だ"と単なるサイコスリラーものとして解釈してしまいがちだが,実はホルガ村の方が原始社会的で,より人間の本源的な社会構造なのであり,規模が異常に拡大し共同体的な濃密な人間関係を必要としなくなった現代的アメリカ(先進国的生活様式)の方が人類史的にはオルタナティブなのである。

この作品はその"温かい原始社会"と"冷たい現代的先進国"という対比をダニーという"メンヘラ大学生"を媒介として浮き出させる痛烈な風刺と言える。

そしてその実は"暖かい原始社会"の側の方をあえて猟奇的に見せることに注意点を引く最大のポイントがあるように思われる。
擬似的なカルチャーショックを鑑賞者に与えるのだ。

個人を包摂する共同体と宗教儀式

クリスチャンが彼氏(パートナー)として不出来かと言われれば,そういうわけでもない。
彼において可能な限りダニーの不安症と向き合い,それなりに尽くしているように思える。

しかしメンヘラというのは根が深く,外側からのケアだけではあくまで一時的な対処療法にすぎない。
内側から共感し同調してくれる存在を求めてしまうものだ。つまり"他者と同じ世界を体験する"事に価値がある。

それを分かりやすく可能にするのが"個人を包摂する共同体"と"宗教儀式"だ。
ホルガ村の人々は個人的な悲しみ,怒り,痛み,喜びでさえも,全員で"共に感じる"ことでもはや共感を飛び越えた同調を示す。

現代先進国のような,個人主義化したネオリベ的なサバイバルに晒され続けていれば心の弱い者は即ニヒリズム到来である。
──現実としても近年の世界的な鬱病疾患者の増加は重大な社会問題である──

個人の命運と共同体の命運がシンクロしている瞬間の高揚感たるや,人間の人間らしい煌めきの最たる状態の一つともいえよう。
さらに宗教儀式を共にすることで,同じ世界観の中において同質な体験をそこで共有するのである。
これこそ外側からのケアではない,内側からの共生であろう。人はこのようなときにはじめて孤独や不安の解消に至る。

戦後三島由紀夫も,この個人の命運と集団の命運がシンクロすることのエクスタシーについて戦時中の体験を振り返っていたりもする。
極端を言えば,真の孤独からの救済は戦争か自立した共同体か,とも言えるかもしれない。

テーマの哲学性と直接結びつかない映像のアート性

この作品は"狂気的な美しさ"と"哲学性の強いテーマ"とが分かりやすく結びつくことなくストーリーが展開していく。監督がこだわり抜く映像美によってもたらされる視覚効果がテーマとなる哲学を説明する足がかりの役割には至らない。
そのため色々と複雑性が高くなってしまっていて,訳が分からなくなってしまいガチなので,映像美と内容を完全に分けて考え,2度見て右脳と左脳で別々に楽しむという鑑賞の仕方がおそらく望ましい。

いかがだろうか,若造の素人ながら,今回はミッドサマーについて解説してみたが,あくまで個人的な感想なので,異論や共感それぞれあったら是非コメントで意見を聞かせて欲しい。

ともあれ,映画鑑賞は自由だ。
何を感じたっていい。何も感じなくてもいい。
感じようともしなくてもいい。

しかし感じた事を共有したりするのも憩いの時間。
まさしく人との"有機的な繋がり"は,そんな一見無駄な営みから生まれることだってないはずはない♕♕♕

いくら素晴らしい技術があっても人は癒せない。
人間的な触れ合いと愛の交流がなければ
ヴィクトール・フランクル

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