いつまでも、僕の中心にあるこの何かに触れて、生きていくために。
空を見上げると、そこには雲があった。
雲はまるで生きているかのように止まることなく、
次々とその形を変えていた。
秋葉原からぶらぶらとその周辺を散歩していた僕は、
上野公園でふと空を見上げた。
それは雲からのメッセージだったのかもしれない。
頭上にある雲を眺めていると、僕の中で何かが起こった。
次はどんな形になるのだろう。
あれは恐竜に見える、いや何かの乗り物のようにも見える。
この雲はどこから来て、どこへ行ってしまうのだろう。
ただ雲を眺めながら、こんなことを考えていたのはいつだっただろうか。
それは、とてもとても遠い昔のような気がする。
そんないつかの記憶が、今僕が見ている風景と重なりあった。
僕はカメラのシャッターを切った。
今この瞬間、僕の中で起こったことを忘れないように。
それから僕は本郷の方へ歩いた。
その途中、不忍池で足を止め、池を眺めた。
するとまた、僕の中で何かが起こった。
それは、雲を眺めていた記憶より、もっともっと昔のような気がする。
いや、もっと新しい記憶のような気もする。
僕は不忍池を眺めながら、兵庫県小野市にあるどこかの池と、
オーストラリアのバララットにあるウェンドウリー湖を思い出した。
そしてそれは、僕自身の姿だと思った。
いつだったかは思い出せない。
そこに誰と行き、どんなことをしたのか、何も思い出せない。
でも僕はたしかに、兵庫県小野市のどこかにある池とオーストラリアのバララットにあるウェンドウリー湖にいて、そこには今と同じ自分がいた。
その日、何か特別なことが起こった訳ではない。今と同じように、
立ちながら目の前の風景をただ眺めていただけだ。
でも僕の中にはその二つの風景が浮かび、
それは僕の中心にある何かに触れているような気がした。
僕はまたシャッターを切った。
今この瞬間、僕の中で起こったことを忘れないように。
僕の中心にあるもの。
それはいったい何なのだろうか。
自分の心に注意深く意識を向けてみると、そこには、懐かしさと
心の平穏があった。
ずっとそこにいたいような、でもどこか寂しく儚く、何か物足りないような、そんな感情があった。
それは、逃れられない自分という人間の愚かさなのかもしれないし、孤独であり続ける人間の一生なのかもしれない。
僕は思った。
それがどんなことであったとしても、
僕の中心にあるこの何かを忘れたくないな、と。
いつでも引き出せるようなものではないと思う。
なぜならそれは、何かを見たり、何かを嗅いだとき、
ふと心から浮かび上がってくるものだからだ。
そしてすぐに忘れてしまうものなのだ。
だから僕は、そのときカメラを向ける。
その瞬間、僕の中で起こったことを忘れないようにシャッターを切る。
いつまでも、僕の中心にあるこの何かに触れて、生きていくために。