見出し画像

SIGMA BFは現代の楽茶碗という話

国産カメラメーカーのSIGMAから新しいカメラが発表になった。
というか、新たな問いが投げかけられた。
SIGMA fpが発表された時の衝撃も凄かったが(その衝撃により無事購入)、今回はそれ以上だと思う。
実はここ最近「茶道」「茶の湯」「岡倉天心」「千利休」といったワードで色々読み漁っていた自分にはどうもタイムリーなトピックだった。

またm4n4c氏の書いたこのnote。

こんな熱い記事を読んでしまっては書かずにはいられなくなったので、勢いで書いていこうと思う。SIGMA BFは楽茶碗なのでは?という話です。

僕もつい先日、茶の湯文化のひとつである茶室の床の間から引用し、ショーケースで床(とこ)を見立てたばかり。

1. はじめに

SIGMA BF
これは単なる最新のフルサイズミラーレスカメラではなく、その背後にある思想や哲学こそが最大の魅力になっている。(と思っている。)

発表時、BFとは何の略か?という疑問が出たのだが、どうやら岡倉天心が書いた「茶の本」から引用している。SIGMAはこのカメラに「Beautiful Foolishness(美しい愚行)」というコンセプトを与えた。スマートフォンで気軽に撮影できる時代に、わざわざカメラというデバイスを手に取ることは、一見すると「愚か」かもしれない。しかし、その愚行こそが美しく、写真を撮ることの本質を問い直す行為になるのではないか——そんなメッセージが込められている。たぶん。

このアプローチは、茶道における千利休の思想と驚くほど共鳴している。かつて、高価な唐物や高麗物の茶器が珍重されていた時代に、利休はあえて素朴で手作りの楽茶碗を「これがいいんだよ」と提案した。その背景には、単なる「道具」としての価値を超えた、美意識と思想の革新があったに違いない。

SIGMA BFと楽茶碗。この二つの存在がどうしても僕には重なって見える。

なんて美しい楽茶碗

2. 千利休と楽茶碗

・唐物・高麗物が主流だった時代に楽茶碗を提案した意義

16世紀、日本の茶の湯の世界では、中国(唐物)や朝鮮(高麗物)の茶碗が珍重されていた。これらの茶碗は、精巧な技術と華やかな装飾が施された高価なものであり、持つこと自体が権威の象徴だったらしい。しかし、千利休はこの価値観に疑問を投げかける。

彼が選んだのは、楽茶碗だった。

楽茶碗ってこんなやつね


楽茶碗は、黒や赤の釉薬を使い、ろくろを使わずに手で成形された、シンプルで温かみのある器である。装飾性のないその姿は、一見すると高価な唐物・高麗物に比べて劣るように見えるかもしれない。というか見た目に関しては普通に劣っている。しかし、利休はそこに「侘び・寂び」の精神を見出した。

・「侘び・寂び」の美意識とは

侘び・寂びとは、華美ではなく、不完全さや素朴さの中にこそ美しさがあるという日本独自の美意識のこと。利休は、茶の湯を単なる贅沢な遊びではなく、精神性を高める道として追求した。その中で、装飾とか格式とかではなく、茶碗そのものの「存在」や「手に取る感覚」みたいなのが重視された。黒でいいのだ。地味でいいのだ。歪でもいいのだ。

これは、道具そのものの価値ではなく、「それを使う行為」に意味を見出す考え方とも言える。そして、この思想こそが先日爆誕したBFとも共鳴する。


3. SIGMA BFと楽茶碗の共通点

・「Beautiful Foolishness(美しい愚行)」という思想

BFは、スマートフォン全盛の時代にあえて専用カメラを使うことの意味を問いかけてきている。つまり単なるスペック競争から距離を置き、写真を撮る行為そのものに価値を見出す哲学。
これは、利休が豪華な茶碗ではなく、素朴な楽茶碗に価値を見出した姿勢と重なる。

・既存の価値観へのアンチテーゼ

唐物・高麗物が主流だった茶の湯の世界において、楽茶碗はおそらく革新的な選択だった。当然、賛否両論あっただろう。
同じように、カメラ業界が高性能化やAI技術を追求する中で、BFは「美しい愚行」として、カメラによる撮影体験そのものの本質を問い直している気がする。
もちろんBFも賛否両論起こしている。これはもしかして、遠い昔に千利休が起こした世間のざわめきを追体験できているのでは?と思うと胸が熱くなる。

・あえてカメラを選ぶという行為の意味

スマートフォンで写真を撮ることが当たり前になった今、わざわざカメラを持ち歩き、シャッターを切ることは、一種の「意志表示」になっている。
これは、豪華な茶器ではなく、楽茶碗を手に取ることが茶の湯の精神と結びついたのと同じように、BFを選ぶ行為そのものが、新たな写真文化を生み出していく可能性を持っている。
アウトプットにそこまで大きな変化はないにしても、だ。


4. 道具を超えた「思想」に共鳴する時代

・物の価値がスペックやデザインだけで決まらなくなった

私たちは今、単に高性能な製品を求める時代ではなくなってきている。それ以上に、そこに込められた思想やストーリーが、価値を生み出す要素になっている。BFは、まさにその典型例といえる。

・何を「選ぶ」かが自己表現になる時代

楽茶碗を選ぶことが、侘び・寂びの哲学を体現する行為だったように、BFを選ぶことは、写真との向き合い方を表す行為となる。道具そのものではなく、「なぜそれを選ぶのか」が、個人の価値観を映し出すのだ。M型Leicaを選ぶ、RICOH GRを選ぶ、フィルムカメラを選ぶ。それぞれに意思表示がある気がするでしょ?

BFで撮る、という意思表示もあり。

・SIGMA BFが示す、新しい写真との向き合い方

BFは、単に写真を撮るための道具ではなく、「”わざわざ”写真を撮るとはどういうことか?」を改めて考えさせる存在だと思った。
楽茶碗が茶道の本質を問い直したように、BFの誕生もまた、私たちに写真の本質を再発見させてくれるある種の福音だと思う。


5. おわりに

SIGMA BFと楽茶碗。この二つの道具は、時代も用途も異なるが、本質的には同じ問いを投げかけている。それは、「私たちは何のために道具を選び、それを使うのか?」という問いだ。

千利休の茶の湯が単なる嗜好品ではなく、精神性を高める道であったように、BFもまた、単なるカメラではなく、写真との関係を再構築するきっかけを与えてくれる。

このカメラを手に取ること自体が、新たな価値観の表明なのかもしれない。

ちなみに僕は発表された瞬間に「インゴット削り出し?じゃあ買うなら絶対シルバー」と思っていたが、楽茶碗との関係性に気づいた時に断然黒を買いたくなった。楽茶碗といえば黒なのだ。

幸い発売までにまだ時間が残されている。
黒かシルバーか、みんないっしょに悩もう。

おわり(今年こそは茶道のお稽古はじめるぞ)

いいなと思ったら応援しよう!