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道徳授業地区公開講座:「すれちがう」世界に想像力の灯はともるか?
地域の道徳授業地区公開講座に出席してきた。昨年に続いて二回目である。道徳授業に対する私の距離感については以前の記事に書いたとおりで、この一年間で変わることはなかった。今回は、「すれちがい」というテーマで、小学校高学年の人間関係について考える時間となった。
取り上げられたストーリーは、非常に古典的かつ普遍的な内容である。二人の登場人物について、それぞれの視点でそれぞれの事情や都合が語られ、互いに交わした約束が守られず人間関係において心理的なしこりが残るという内容である。そして、この話を読んだ小学生たちが意見を交わすのである。
道徳の授業である限り、基本的に二人の登場人物の過ちのウエイトは限りなくフィフティフィフティのはずである。多少バイアスとして作用してしまう情報が混入し、あるいは時代や読む人の個性などによって、描かれる事実のディティールに対して、意図しない偏向的な文脈が生じる可能性は十分あるにしても、それは微々たるもので本質的ではない。
またたしかに、現代はパソコンがあり、スマートフォンがあり、SNSがあるのだから待ち合わせの連絡などもっと容易であるといった意見も出ることであろう(家に電話が一台しかなく、それが原因で待ち合わせができないというシチュエーションを想像できる児童がどれだけいただろうか)が、そうした環境はここでは問題ではない。素材となったのはあくまで、時代や環境に左右されない、普遍的なすれちがいと人間関係の動きについての物語、である。
授業の中では、「約束の仕方や細かいルールが必要だったのではないか」、「そもそも友達関係が一方通行なのではないか」といった意見もあった。
私からすると、話としては2つのポイントがあるように思える。ひとつには、この学習のテーマは「信頼と想像力」についてであるということ。もうひとつは、現代的な多様性とどう向き合うかということである。
現代は想像力の時代であるとは常々公言してきた。想像力を伴わないコミュニケーションや関係は、きわめてセル的であり、自己中心的で時に暴力的である。これを回避する想像力、つまりそこにないものを信じるという力を発揮できるかどうかは、信頼という実感に支えられる部分が大きい。
もちろん信頼がそこになければ想像力を働かせなくてよいというわけではない。本来、突発的・偶発的な事態においてこそイマジネーションは本領を発揮するものである。しかし向き合う状況や現象に対して信頼がある方が、想像を補完する情報はより多いということになる。
しかしいま、子どもたちにとって信頼を揺るがす情報およびその経路がいささか過多なのではないだろうかと考える。そのため、たとえば人間関係であれば、まず先に信頼が揺らぎ、想像力を働かせる前に関係に白黒をつける方を選んでしまうのではないだろうか。
決定が速く、きわめてデジタル的であり、それはワンクリック的な思考であるという見方もできるかもしれないが、それはあくまで表層的な分析のような気もするが、少なくとも問題のスクラップ&ビルドの速度は、よくも悪くも速い世代であるのは間違いがなさそうである。一方で、特定の関係への執着がないだけに、どこか自分の居場所をもとめて彷徨う時代の子たちだとも思うわけである。
頼りなく、すがれる何かをスマホの画面越しに探す時、彼らの不安な想像力は著しく精度を欠くに違いない。
いまひとつ、多様性社会というのはそもそも「すれちがい」のきっかけがさらに増える世の中だ、ということを理解できるか、ということである。
大人になると、そもそも世界が「すれちがい」で成り立っていることが当たり前になる。少なくとも私にとってはそうだ。歴史上、すれちがいのない時代も文明もなかったし、みわたせば古今東西に分け入らなくとも、世の中すれちがいには事欠かない。
それが、多様性に寛容な態度や理解を示すという世の中になれば、横たわる価値観のずれはますます大きくなり、もって、それぞれが主張する多様性がすれちがいを増大させるのである。
だからこそ、そこに求められる関係には、まさに齟齬そのもの、すれちがいずれているそのピンポイントにこそ、最大の想像力を豊かに働かさなければいけないということである。またもや想像力、なのである。
本題とは逸れるが、もうひとつ非常に興味深く思えたことは、ほぼ「同罪」と思える二人の登場人物のうち、一方のイラストを見て「意地悪そうだ」であるとか「もともと性格がきついのではないか」といった意見が出たことである。
これは一見、授業の本題にとってふさわしくない意見のように感じられるかもしれないが、実は現代社会においては非常に大きなテーマなのである。つまり、ルッキズムはますます加速し、人間関係、さらにいえばそれがさまざまな「すれちがい」に与える影響は看過能わざる問題である、ということだ。視覚文化至上主義の時代を見直すヒントはこんなところにも顕在している。
授業の最後に、どのような理由であっても、関係を断つのではなく互いに理解しあうことは必要か、という質問に、児童たちが一斉に回答を入力し始めると、パソコンからミラーリングした画面に「賛成」のカードがどんどんと増えていく。まるで、デジタルが意思決定をしていくような、不思議な感覚にとらわれるが、そんな妄想についてはここでは措く。
今は「賛成」優位であるが、この子どもたちが、今後の議論でどう立場を変えるのか、その趨勢が気になりつつ教室をあとにしたのだが、ある児童が、「待ち合わせに遅れてくることを責めるより、相手を心配するのが普通ではないか」と発言したことはとても心に残った。このような子がいる限り、想像力の芽は消えない。そう信じられた、貴重な時間であった。(了)
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