旅情奪回 第27回:時空の旅路に思い出す別れ。(前編)
なぜか秋冬に別れが多い。特に、家族との別れが多い。それは、単に気候のせいや、寒い時期だからということではなく、多分秋が、冬がそうさせるのだ。
かねがね、なぜ私が、あまり縁のない親戚に会いにいったときでさえ、両親以外の親族にもよく似ていると言われることが多いのか、小さい頃から不思議に思ってきた。もちろん先祖のことまでは分からないが、そうして「●●ちゃんは、▲▲に似てるねぇ」とあちらこちらでいわれれば、自分にはもしかしたら、一族のすべての記憶がたまたま集まってしまっているのかもしれない、と思うことがある。それぞれ血を通してなにかの形で縁があったのだから、そのようなことがあっても一向におかしくはないのだが、「一族の集合体」という依代であることだけが、一族の歴史の中での私の役割であり宿命なのかもしれない。
そうして、この季節になると、それぞれの命日を前に、己の中に彼らの断片を引っ張り出してきて、あの世とこの世で対話するような時間を過ごすことになる。
残酷ではあるが、今生の別れに年齢順はない。私が一番最初に経験した葬式は、伯母との別れだった。伯母はとても柔和な人で、いくつになっても私たち兄弟を「ちびちゃん」と呼んで、「今日も行こうか」という言葉を合図に、少し歩いたところにある玩具屋で、いつもおもちゃを買ってくれた。ネットショッピングが当たり前になった今、いわゆる玩具屋というのはもうほとんど見かけなくなったが、私にとっての玩具屋の記憶は、この伯母との散歩道にあったあの店構えがすべてだ。とても愛嬌があって、綺麗な人だった。血縁ではなかった。
次が伯父である。伯父との思い出は多くはないが、長じるに従って、同じ長男として共感することが多々あり、昔気質で無骨な人だったが私にはやさしかった。手先が器用で凝り性。もともとは役人ではなく料理人になりたかったというだけあって料理は玄人はだし。自ら食材を手にとって、すき焼きや石狩鍋になると、母が手を出せないほどの手際であった。
その伯父とは、もう死が近い冬に、突然思い立って病院にお見舞いに行ったのが最後の別れとなった。
私自身もなんとなく、今会わねばもうこれきりになりそうな虫の知らせがしていた。体中にチューブをつけた伯父は見る影もなかったが、目を細めて私の来訪を喜び、よろよろとして生命力を感じない足取りで面会室まで出てきて、小一時間話をしたことをよく覚えている。
「●●ちゃん、もうこんな時代なんだから、あまり長男ということに縛られなくてもいいんじゃないかな?」という言葉を、すっかり険の取れた表情で遺してくれた伯父は、文字通り戦後日本と旧世界のはざまで、長男であることに翻弄され、苦悩した人だった。その夜、私は涙をこらえきれなくて、ずっと上を向いて家路についたことが忘れられない。
そういう伯父は、長男としての責任をすべて果たし、代々の家を整理し両親を東京に引っ越させて死んだ。伯父は、父の一番上の兄であった。
やはり秋に逝ったのは、父方の祖父だった。分かり合えなかった長男の死という逆縁に、長年分家の長として責務を背負い込んできた明治男が、外聞もなく慟哭したと聞いている。
文武両道。長身痩躯の優男で、息子三人が束になってかかっても敵わないほどの男前だった。
もちろん、男尊女卑の時代の男で、なおかつ家長としての威厳に誠実だっただけに、陰で苦労した人もいただろう。父が末っ子ということもあって、縁は近くはなかったが、ある夏に祖父母の家を訪ね、上座に座った私が祖母にえらく叱られ、それを見て苦笑いしていた祖父を思い出す。
老いてはその博識と強い好奇心で組み上げた、セピア色の時代の精確な話をたくさん聞かせてくれた。弟はあまりに幼く、祖父の話よりも中庭の蜻蛉の方に興味深々だったが、私は話を聞くのが好きだったので、祖父は、会うときはいつも私をそばに置いて放さなかった。死の直前にも、「看護や介護してくれる女性スタッフに無精髭は見せられない」といって早朝から髭を剃る伊達男だった。(後編につづく)