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「女性の敵」は絶滅したか。
瀬戸大也選手の妻・優佳さん「このままでは家庭が壊れてしまうかもと思っていました」
この女性は賢い、と思う。トイレでなんちゃら男の妻も胆力ならあったが、「裸の王様」のご仁をかなり多面的かつ客観的に分析している。そしておそらく、そのほとんどがいずれ的中していたものと、門外漢の私でも想像できる。
それはさておき、だ。昭和世代からすると、こういう話が出ると大体世の中は「女性の敵」という言葉をよく使っていた。いま、「女性の敵」なんていう言葉はほとんど聞かない。
良いか悪いかではなく、当時は「ジェンダーの連帯」というものが確かに存在していて、それはそれで機能していたと思う。男女の社会的地位向上、雇用や待遇・働き方、機会の均等化からポルノグラフィー排除まで、そういった一連の流れにこの連帯があった。
いま、こうした連帯はアナクロニズムに映るに違いない。千差万別の、やむにやまれぬ個の闘いが熾烈すぎて、連帯している暇などないし、あるいは、共有できる闘いそのものが存在しないのかもしれない。ある人にとってアイデンティティや生命にかかわる問題であっても、他の誰かにとってさしたる問題でなければ一緒に戦うことはない。
ソーシャル時代がいかに連帯の時代とはいえ、大多数は「顔の見えない」戦友でしかない。「連帯での闘い」を求めるあらゆる組織は、かつてのような動員力と戦力を失って迷走している。
連帯のすべてが正しかったわけでも、あるいは私が好いていたわけでもない。そして、個の闘いが激化する世の中のすべてに批判的なのではない。けれども、これからはますます、個人の心地よさ・心地悪さが、大きく世界を変えていく時代になっていくはずだ。ある人のプライベートな闘いが、世界を生かし破壊する。
社会という制度そのものにはそこまでの可変性や、対応するキャパシティがあるわけではない。
そう考えた時、現存する社会制度そのものの制度疲労もさることながら、果たして人類そのものも、「種」としてこれを保持する限界に到達するのではないか、という気がする。(了)