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旅情奪回 第十回: 星空の下でディスタンス。(再掲)

 こう書くと思い切り「世代」が明らかになってしまうのだが、かつてThe Alfee“星空のディスタンス”(1984)という曲が大ヒットした。不謹慎と取る向きもあるかもしれないが、「ソーシャル・ディスタンス」(本来はソーシャル・ディスタンシングが正しく、社会学を少しでも齧った人ならば、ソーシャル・ディスタンスと言えば社会学/社会心理学用語と気づくかもしれないが、ここでは急速に一般化した感染拡大防止のための社会距離拡大戦略の意味で以下進めることとする)という言葉を耳にすると、ついあの曲を思い浮かべてしまう。
 新型コロナウイルスの世界的な蔓延で、日本でもすっかりこの言葉がお馴染みとなったが、なにやら新しくて使い勝手の良い横文字に弱い日本人には、久しぶりにグッとくる語感だったのではないだろうか。
 そもそも国土も狭く、今でこそセル化してきているが、元は長屋的感覚の強かった日本では、ディスタンス=距離という概念や感覚自体ピンとこなかったかもしれない。しかし、国土が広く、あるいはプライバシーに対して過剰にセンシティヴなお国柄では、コロナ以前にもディスタンスというのは物理的にも心理的にも、重要にして至極当たり前な「社会的適正距離の尺度」として機能してきたはずだ。
 といって、ならば欧米諸国の文化が特別に適正距離を尊重してきたかといえば、果たしてそうともいえない。単に、「心の習慣」という態度の問題であって、極めて相対的な要素が強いのではないだろうか。
 実際、顔の見えない、あるいは直接石もミサイルも飛んでこない場所からならば、適正距離などどこ吹く風、至近距離よろしく他罰的な「発信の矢」がモニタ上に一斉に降り注ぐ。今や世界中、仮想の社会性において適正距離などないに等しい。そんな意地悪なことを考えながら一方で、こうしてスローガンを掲げて人と人の距離を遠ざけねばならないなんて、人肌から遠ざかったと言われる現代も捨てたものじゃないな、と考えたりもする。
 ブラジルはもともとヨーロッパからの移民が多く、特にイタリア移民が多く暮らす港町に住んでいた子供の頃、当時まだ求愛表現としてのキスについてそれほど熟知してなかった筆者少年にとって、老若を問わず、ましてや性別を問わず、再会でも別れ際でも公然と抱き合い互いにキスの雨を降らす大人たちの姿は、滑稽でいて温かく見えた。これ、今で言うならば最高レベルの「濃厚接触」であるが、抱き合い頬寄せ合うことで良好な関係が保たれる独特な適正距離に相違ない。新手のウイルスが猛威を振るういま、彼らはどうしているのだろう。自分たちが大切にしてきた親愛の情を示す身体表現と適正距離を取り上げられた時、身ぶり手ぶりや「まなかい」だけで想いを伝え合える文化圏の人たちと比較して、おそらくそのアイデンティティの揺らぎは私の想像を遥かに超えているのではないだろうか。
 ブラジル式の濃厚接触に慣れていると、握手は、逆に少し他人行儀に感じてしまう。これまた相対的な感覚なのかもしれないが、何となく上から物を言われるような萎縮した気持ちで笑顔を作らなくてはいけない。「ハグキス」の方が大好きだが、ここ日本では身を律していないと“変なおじさん”になってしまう。残念ながら、ソーシャル・ディスタンスと人間のモラルは、近くて遠い。
 通信技術と交通インフラの飛躍的進歩のおかげで手に入れたディスタンス(物理的距離)なき時代に、ディスタンス(適正距離)を失い、ソーシャル・ディスタンスを獲得する螺旋の綾。ブラジルのあの光景が、瞬間であれ失われているのではないかと案じ、「三密」を避けて、日頃滅多にしない夜歩きなどしていると、やがて初夏を迎える星空の下でそれぞれのディスタンスに思いを馳せずにいられない。(了)
*(20200429執筆)

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