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“Distant Lover”。あるいは濃密な二時間、淡泊な二時間。

 東京でも、コロナウイルスの感染拡大が止まらない。これについて専門的な、あるいは野次馬的な何かを書くことはしない。
 それにしたって、である。もともと、緊急事態宣言が発令されて以降日々の感染者が減ったのは、あくまで自粛という自助努力の結果であって、治療法が見つかったのでもなければ、ワクチンができたわけでもなく、それは今も相変わらずであって、宣言解除をすればこうなることはだれもが予想できたことだ。
 飲食店は相変わらず、今後苦戦を強いられそうだ。いったんお客が戻ったというのに、なにかぬか喜びさせて梯子を外すような施策は、当事者たちにとってとても気の毒だ。仮に営業時間を短縮してお店を開いても、この感染拡大傾向の中どれほどの来客が見込めるのか、20万円で補えるものは多くはないだろう。
 さてその飲食の場でのひとつのルールとして「飲食は二時間程度に」という文言があった。二時間、か。時間というのは、一般に我々が思っているよりはるかに相対的なものだから、それが「どんな二時間」かによっても与えられた時間の意味合いは大きく異なるのだろうな、と思ったりする。
 できれば会いたくもない人と。あるいは気の乗らない商談の延長で。シビアな夫婦問題で対峙し合うとか。それらにだって大事な意味があるのだけれど、「濃厚接触」したいかといえば、できれば時計の針を進めたい二時間だろう。
 一方で、家族や友人と。あるいは一人でゆっくりと自分の時間を楽しみたい。そしてやっぱり、恋人や伴侶との特別な二時間は、できればゆっくり過ぎて欲しいと願ってはいけないだろうか。
 Marvin Gayeのヒット作に“Distant Lover”(1973、邦題「遠い恋人」)という曲がある。セクシュアルなテーマに満ちたアルバム『Let's Get It On』にあって、つかの間プラトニックな気持ちになるバラードだが、唸り絞り出すように、隔てられ離れた「遠い恋人」への思慕の情を歌い上げるマーヴィンの、強く瞼を閉じた表情ー感極まると歌うときに目をつぶる癖は、ブレイク前の彼がたびたびモータウンから注意されてきたステージマナーだったのだが―がはっきりと脳裏に浮かぶ一曲だ。この「遠い恋人」が誰だったのか、当時の恋人のジャニス・ハンターだったのか、マーヴィンの腕の中で死んだタミー・テレルだったのか、はたまたまだ初々しかった頃の泥沼妻への未練か…様々な憶測があるようだが、今にして思えば、相手は誰であれ「隔てられたすべての恋人」の胸中を結果として代弁していたのかもしれない、などと想像を膨らませる。
 身分、しきたり、タブー…恋路を妨げるハードルは時代とともに変化するが、ハードル自体がなくなったためしはない。今日日ならば、それは物理的な濃厚接触、濃密な二時間かもしれない。
 またも、二時間、か…である。せめて、世の愛し思い合う人たち同士が、その二時間だけはsocialに隔てられたDistanced Loversになることなく、かけがえのない密な時間を過ごしてほしいとささやかに願っている。(了)

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