旅情奪回 第13回:偏執について。
私は常々、本当に好きなことは誰が相手であろうと、どんな場所であろうと、独自の視点で、最低でも三時間はそれについて話すことができなければ本当に好きとは言えない、と周囲に嘯いている。それも、一度話し始めるや相手がその話題を好きであろうとそうでなかろうと関係ないのである。そんな躊躇や遠慮などものともしない。無用である。相手の気持ちを汲んで、聞きたいことや有益に思えることを話してあげる。そういうのは講演であって、偏執的な愛情語りとは世界が違う。だから、本当に好きなことというのは空気の読めない話題であり、「ウザい」のである。そして、だからこそ好きなことは滅多に話さないし、そもそもそんなにたくさん抱えることもできない。
例えば、今ここがどんな状況下でも、「ビッグマック」の話を三時間はできる。パティのパサパサ具合、レタスのどの部位にジャンク要素を感じるか、ビッグマックの温かさで結露した容器のヘタレ具合、そしてそんな容器の内側に、細かい水滴とは真逆に、やけに無機質に冷えて固まり、本体から遊離してしまったチーズの一片…こんなことを延々と話し続ける訳である。実に迷惑である。
チーズといえば、ワインが飲めるわけでもないのに、これまたとても大好きで、指が橙に染まるようなチェダーチーズ、胸焼けするようなクリームチーズ、喉がつかえるような塩気とその苦味が癖になるゴルゴンゾーラチーズ…小腹が空いた時は、ゴーダチーズを果物ナイフで2、3センチカットしてそのまま胃袋に放り込む。正しい食べ方など知らない。どんなお酒や料理と合わせるか。そこまで知悉していればチーズ道はもっと楽しいだろうし、少し高踏的でグルメの香りがするかもしれない。しかし、私にとってチーズは、荒ぶる原初的な欲求の対象であり、この世に存在する純粋にして至高の偏愛の対象なのである。
しかし、である。偏愛は時に感覚を停滞させる。正しくいえば、周りを見えなくさせるのだ。偏愛の対象に没入している間は、それについてますます知悉していくというのに、深く掘った穽では、突然周囲が何も見えないことに気づくのである。そして、あたかも自分が、Googleマップのどこか一点にピン留めされて、ズームアウトしていくほどに、大きく広い世界の、小さな塵芥の点であることを思い知らされるのである。
こうして、旅をテーマに徒然と原稿を書いてはいるが、振り返って、では旅そのものついて三時間も話をすることができるだろうか、といえばどうもそれができそうにない。そもそも偏執とはフェティッシュなものなのだとすれば、旅はその対象にならなくても当然かもしれない。だから旅が好きで仕方がないのに、偏愛や執着の対象とはならない。
旅への思い入れやこだわり、流儀やスタイルがある人がいる、というのはよくわかる。しかし、それは偏愛や偏執とは少し異なるだろう。前者が、あたかも信条のように、外に向かっていく性質であるのに対して、偏愛や偏執というのは、より狭く、より深く、ただ一点という内的なベクトルに向かって噛り付くように潜行していくものである。
成程旅は道連れ、世は情けとはよくいったものだ。不合理で不確実なものを携えて我々は旅を続ける。たびたび道草を食い、トラブルに巻き込まれ、予期せぬ感動に立ち会い、時にペースダウンしたとしても、旅は決して澱む事がない。だから、自分の座標を見失っても、周囲の景色を喪失することがない。旅は私に、偏執する「隙」を与えない。畢竟旅は、点でなく線、あるいはもっといえば、きわめて流動的な揺蕩い(たゆたい)なのである。(了)