ハンセン病資料館へ、ユキマサ君と
土曜日の午後になって「あれ、おれ『憐れみの3章』を観に行きたいと思ってたのに」と思った。今週は休みの土曜日だったのに。相変わらず休みの日はロクにメシも食わず、ひたすら疲れた心を持て余している。しかしこの日曜はちがうぜ。今週はここで相互フォローして下さっている、「はこぶね行政書士事務所」さんと「国立ハンセン病資料館」に行くんだ!
※これは2024年10月20日分の日記です。え、15日も前なのか……
「ユキマサ君」とは東京都行政書士会のマスコットキャラクターですよ
10月20日。西武池袋線の「清瀬」駅から西武バスに乗る。清瀬駅前って高い建物がないなと思う間にバスは来た。バスは久しぶりな気がする。ちょっと待ち合わせの時間には早いかなという時刻ではあったのだが、西武バスの間隔が分からないので遅刻するよりはと乗り込んだ。清瀬駅前、時間つぶせそうな気がしなかったし……しかし案の定、15分前に着いてしまった。早かったなあどうしよう……いや待て、もう佐野さんいるじゃん!
「やべえ!」
なんで15分前なのに佐野さん待って下さってるんすか。やべえ。慌ててバスを降りる。すると「お客さん!」とバスの運転士さんから呼びかけられる。なんすかナンパすか困ります。「どちらの駅から乗られました?」――区間料金で一律料金じゃなかったのに、おれが乗車時に「ピッ」ってやってなかったんである――おれがやべえ。すみませんすみません! と謝る。寛大な運転士さんに解放していただき信号を渡ろうとすれば、赤。嗚呼。やっと佐野さんのもとに駆け寄ったときにはもう、「やっと会えたね」と、パリで中山美穂に辻仁成が放ったという(サムい)言葉まんまの気持ちであった。
でもこの探訪記を書き進める前に、「はこぶね行政書士事務所さん」もとい佐野元信さんとの出会いを書かせていただけるだろうか。
「街の法律家」を探し歩き、行政書士に出会う
この日を前に、佐野元信さん(先生と呼ばせて下さらない)には初夏の頃にお目にかかっていた。ご相談したいこともあったのだが、「行政書士にはどんなことを依頼できるか知りたい」という思いがあった。生きてりゃ揉め事もある。でも何かトラブルがあったときに法律の専門家に動いてもらって解決することは未だに心理的ハードルが高いもので、「料金が高い」とか「外聞が悪い」とかそんなイメージが心の奥底にあったりする。もうケツに火が点いてるのに「大げさにしたくない」という心理も働きますよね。
おれは20歳そこそこでクソな叔父に見よう見まねで内容証明郵便を送った経験に始まり、法的トラブルは「全然遠い話じゃない」と思うことが多かった。でも自分で調べて頑張るのは大変ではあって、知識的な限界もあるし制度の変更も追いきれない。特に親族間トラブルなんて「自分のルーツから裏切られる」という消耗が激しい壮絶な経験であるのに、そのなかで家族を支え自分が狂わないよう自制しながら冷静に進めるのはよほどタフな精神力がないと無理だ。で、そういう親族間での揉め事が噴出するのって親が死にかけているタイミングだったりする。神経ズタズタ感情グチャグチャになるし、全部終わった後、ドカンと来る。おれ人生でこれまでのところ2回あったけど、だからホラ、おれ少しおかしいじゃないっすか。ウケる。ウケんな。そゆことですね。そういう経験をすると大抵の人は「おれ家族いません」「おいら化学実験中に偶然生まれた生命体さ」と逃避するようになる。「そっちがよかった」と真剣に思うようになるわけ。「ルーツから裏切られる」ってそういう経験なんだ。自分の血の一滴まで憎むようなね。
ただでさえそういうキツい体験だし、それは自分が引き受けるしかない。ほかの人に代わってもらえない。だからせめて確かな知識と経験でアドバイスしてくれて/実務面はがっちり引き受けてくれる「誰か」がいてほしいわけですね。「こっちは見落としがないようにちゃんとやっとくから、あなたは今夜くらい心身を休ませなさい!」と言ってくれる存在がいれば、「じゃあお風呂屋さん行って、その後2時間寝ようかな」と思えるじゃないすか。忘れていた食事もしようという気持ちにもなれるかもしれない。
だから、直近で何はなくとも「これはお願いできますかねえ」「どうしたらいいですかねえ」と相談できる「街の法律家」を探していたんです。「ハードルはなるべく低くなければ人は諦めてしまうもの」という経験をして、「もっとカジュアルに相談できるんじゃないか」と考えるに至って、「弁護士以外の誰か」と思うようになった。そんな経緯で「そうだ、行政書士の先生に会いに行ってみよう」と思いついたわけですね。
もちろん法律相談を考えてパッとイメージされるのは、オールマイティーに「弁護士」だと思います。実際、調停やら裁判だと弁護士にお願いするしかない。司法書士には司法書士の、行政書士には行政書士の持ち場がある。でも「調停/裁判」にする必要がないケースも多々あるし、相手方への通知等で、相手が冷静になり、問題行動をやめる場合もある。コスト面でも負担が少ないので、本当に内容次第ではあるけれど「行政書士さんに解決してもらえることなら行政書士さんへ」という考え方ができる。
そもそもの話、まず弁護士に相談するのが難しい。平日に会社から休みもらって、アポ取れた弁護士の事務所に行って、ってそれだけでとても大変。
「いやいやネットで相談できるじゃん」と思うでしょう? 弁護士は初回から対面で会って人物を見極めた方がいいですよ。どうせ会うことになるし、人物像はメールのやり取りじゃ分からないから。これまで何人も会ったけど、全然印象がちがった。行政書士はメールアドレスも公開している先生が多いし、ある程度は時間を融通してくれる方もいらっしゃる。比較的フレキシブルに対応していただけるところが多いのだ。それなら、行政書士にお願いできる内容なら断然そっちがいいなと思うわけですよねえ。
そんな経緯で、6月の終わり頃か、佐野さんにお目にかかっていたわけなのです。そして今回は以前から気になりつつも「ハンセン病資料館」を訪問したことがなかったおれのため佐野さんが同行して下さるということで、お言葉に甘えて御一緒していただいたのでした。以上、「出会い篇」です。
さてさてさて。記事を分けるか悩んだけど、このまま行くぜ。
国立療養所多摩全生園
待ち合わせは、ハンセン病資料館にほど近い「国立療養所多摩全生園」正門。お久しぶりです本日はご足労をおかけしてという一通りの挨拶が済み、構内へ。広々とした敷地、自然豊かで、たまに近隣住民が自転車で横切るほかは人影もない。眠るように低層の建物が並ぶ。とても静かだ。秋に移行しようという穏やかな日曜なのに。いや日曜だからかな。佐野さんによれば、近隣の子どもたちが立ち入って野球してもよいしそんな日もよくあるけど、今日はそうじゃないということだった。しかし佐野さんと並んで歩きつつ聴く話には、目にする場所には、この「全生園」と呼ばれる療養所が単なる病院なんかとはちがう目的のために作られたのだと思い知らされ、この日の穏やかな陽光も水を打ったような静けさも、戦後まで非常に恐れられていた「ハンセン病」、その患者たちを悼み、祈るために用意されてそうなのだと感じられてくる。その時代、ハンセン病は罹患したら隔離され肉親にも二度と会えない感染症だったのだ。ここは歴史の始まりにおいて、「収容所」、つまり隔離施設だったのだ。療養所というが、その当時治療方法があったわけではなかった。入所者同士が不自由な身体で助け合い、補助も看護も多くの部分を自分たちで行なわなければならない。入所者はここで静養していたのではなく、強制的に収容された後はこのなかで労働をしていた。二度と出られないことは、入所後に思い知らされる。働かなければ懲罰もあった。
「ここが洗濯場でした」と佐野さんが示した跡地には、作業できなかった方が罰として更に状態の悪い施設に送られ、すぐに亡くなったことが書かれた看板があった。ここが入所者たちのお墓です、ここが学校です、こちらがお寺で、教会がここでと佐野さんの説明がある。地に風に耳を澄ませた。それら入所者たちが生涯をそこで終えるための全ては、いま清らかな陽ざしと静寂を得ており、部外者の私にはたやすく語り出そうとしない。
でも、声を聴かせて欲しかった。
現在では埋め立てられているが、敷地外周には堀があった。収容した病人を逃亡させないために、かつてこの全生園も他の収容施設と同じように、ぐるりを堀で囲まれていた。その堀を作るのさえ、入所者たち自身に強いられた仕事であった。私は襤褸をまとい神経を冒された手にスコップを握らされた自分もそこにいたように感じた。「掘り起こした土がこの小山になりました」と佐野さんが指す先を見ると、登れないほどではないが見上げるような山ができている。「入所者たちはここに登って郷里の方向を眺めたそうです」と佐野さんが言う。自分ひとりでは登れなくなった者を、乞われて引っ張り上げる。あんたの郷里はあっちだよと、見えなくなった者の身体をひとつの方角に向けてやる――寄り添い、互いの内に己の悲嘆を見ながら彼らは暮らしていた。この山で「おかあちゃん」と泣いたのだろう。ここで人々は抱き合って、互いを泣かせてやっただろう。訪う者がここに立つとき、そうした想像は空想ではない。ただ事実として、説明を待たずにそこに広がるのだった。私の前に広がって在るのだった。
「あの、この敷地内で撮影は……」
「うーん、やめておいた方がいいでしょう」
「そうか、そうですよね」
お食事処なごみ
「早い時間に閉まってしまうので」と佐野さんに誘われ、全生園敷地内の食堂に向かった。店内なら撮影しても大丈夫ですよ、と佐野さんが言う。店内には、この全生園もロケ地だという映画「あん」のポスターが貼られ、故人である樹木希林氏の写真がある。撮影中に使用していたという湯呑も。
撮影のこと、「らい病」と呼ばれていたハンセン病の、今も残る悲しみ。食堂で働く職員さんの涙にむせびながらのお話に、こちらも泣かされる。この施設を訪れる人々が入所者と交流することはないが、この食堂には語り部がいるのだ――それは食堂で働く人たちの業務ではないから、求めて提供されるものではないのだが、私は幸運だった。初めて来ましたと告げたら、とても喜んでくれて、お仕事の合間に少しだけ話をしてくれたのだ。
映画「あん」の予告編を観て、良い映画を作ったんだなと思った。現代の話として描かれるような、これは今も息づく物語、いや現実なのかとショックを受ける。全生園でも現在の入所者は100人に満たず、全員が80歳代以上だという。肢体不自由等、ハンセン病の「後遺症」が理由で入所している。
しかし今は高齢になった入所者の、ここで暮らす最大の理由は、身を寄せる家族がないことや、長らく「外」で暮らして来なかったこと、そして社会に残る「偏見」だろう。ここの外に生活の基盤がないこと、外に彼らを迎え入れる準備がなかったことが、理由なのだろう。私たちはハンセン病を――いや「らい病」を、だ――克服したと言えるのだろうか。
この映画は、まだ観ていない。戦後治療薬ができて「ハンセン病」は死の病ではなくなった。現在、国内で発症する人はほぼおらず、治療もできる。しかしこの病気は人々の心に、今もなお続く「病」を残した。偏見が患者や患者家族への忌避感を消させないのだ。私たちはそんなものに「病んで」きた――盲目的な恐怖心や偏見に、治療薬は未だ発見されていないのだ。
国立ハンセン病資料館
美味しいランチをいただいた後、いよいよ「国立ハンセン病資料館」へ。このときにはもう、佐野元信さんという優れたガイドによる説明を受け、食堂の方のお話も聞き、全生園という空間が湛え発しているものを吸収して全身の毛穴が開いている状態だった。実は当初、私は次の資料館だけ見られればいいと思っていた(というより全生園敷地内に正門での記名もなしに入れると思っていなかった)のだが、全生園のなかを歩き回り肌で歴史を感じた後では、資料館を「座学的で退屈なおさらいが残っているだけなのではないか」と危ぶんだほどだった。全生園はあくまでも施設を必要とする入所者さんのための場であり観光スポットではないのだが、メインは「全生園」だった、という感じがあったのだ。
どちらを先に見るか、という「初回問題」
これは余談的になるが、そういう意味では、隣接する「全生園」と「資料館」の両方を見ると計画したとき、その順序は悩みどころである。資料館で充分な知識を得てから全生園を感じるか。肌感覚で圧倒する「全生園」を歩いてから知識を求めて資料館に行くか。私は「資料館から全生園」ルートで知るコースを経験できない(初心で初体験として経験できない)から何とも言えないのだが、今回の「全生園の敷地を歩き食堂でランチして資料館」という、完全に無知な状態かつ初回だった私のために佐野さんが考えて下さったコースは私にはとてもよかったのではないかと、書きながら感じている。
そう思う根拠は、およそ感覚的な話であって伝えにくい。だが例えばこう書けばどうだろう――「全生園→食堂→資料館」のコースは、初めて友人の家を訪れるように外観を眺め、出て来た友人家族から家のなかに招き入れられ、友人が家族と暮らすその様子を眺めるような経験であった。これはいかにも正順であろうし、段階的に心を開くのに無理がない。
全生園の建物に招き入れられ暮らしを感じる体験
そんなことを書くのも、この資料館の作りとして、非常によく(言い換えれば生々しく)隔離されていた入所者たちの暮らしを体感できるからだ。体験コーナー的なものは「不自由な手で服のボタンをはめる道具を使ってみる」くらいのものしかないのだが、それでも胸に迫るものがある。居宅で割り当てられた部屋の狭さや、食事の内容は伝わるし、特に懲罰房は気落ちするほど暗く狭く、恐ろしいものだった――実際に使われていたものが展示されているのだが、壁にはそこで過ごした者の手で、日付を忘れまいとしたのだろう、暦が書きつけられている。そのむごたらしさも撮影したが、ここに載せる気は起こらない。
ハンセン病は非常に恐れられる感染症だったため、敷地内で火災が起きたところで周辺の消防署は敷地内に入りたがらなかった。一事が万事そうだったため、学校も寺も教会も墓地も、必要だったわけである。ここは自治区、いわば小さな村であった。入所者同士での結婚もあった。ただし患者には堕胎および断種が強制されていた。それはどのような設備で行なわれたのだろう? 震える思いがする。
国は病人を通報するよう国民に奨励した。官民一体の「無らい県運動」が起こり、自治体は競って患者ゼロ運動を行なったわけである。その内実は終生隔離することでしかなかった。それは遠い昔話だろうか。1943(昭和18)年にハンセン病治療薬である「プロミン」がアメリカで開発され、日本でも1949(昭和24)年には全国の療養所で使用が始まったが、「らい予防法」が廃止されたのは1996(平成8)年のことである。
私は「ハンセン病差別は現代の話として描かれるほど近しいものだったのか」と衝撃を受けたが、それほどまで無知だったわけである。ただし自分が「知らない」と分かってはいたので、「ハンセン病資料館」も時間を見つけて絶対に行かなければと思っていた。「はこぶね行政書士事務所」佐野元信さんとの出会いから、その機会をいただいた。それは幸運だったと思う――ひとつの感染症、いかな深刻な状況が広域で広がっていた過去があるにせよ、ひとつの病気をテーマに歴史を語るための資料館があるのは、やはり「滅多にない」ことなのだが、圧倒されたし、しみじみと学びを残すことの必要を噛み締めていた。本当に行ってよかった。
行ってわかる「そこに足を運ぶ意味」
たとえば小学生が、「勉強だから」とこのハンセン病資料館に連れて来られるとして、想像されるのは退屈さではないだろうか。大人にとってさえ、そうであるかもしれない。それは「いつか」の物語である。「どこか」の悲劇である。「誰か」の痛みである。――と、多くの人が考えているからだ。
だがそれは偏見や差別が「終わった」あるいは「なかった」こととされているからだ。そのとき人々は何から目を背けているのか。私は進む道を探っている。差別を起こさない道を探っている。不安から他者を排除しない道を探っている。帰りのバスを待つために停留所に向かう。全生園の外堀を埋め立て現在は舗装されて出来た歩道を歩き出し、「心弱くありたくない」と胸に思った。
(はこぶね行政書士事務所さんに心から感謝します)
映画「あん」主題歌 秦基博/「水彩の月」 Short Ver.
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