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地理旅#15 「南アフリカ編①~異質の他者を認めるとは」(2024.8)


喜びか、悲劇か。

降り立ったのはアフリカ大陸・最南西の都市、ケープタウン。南アフリカ共和国の「マザー・シティ」だ。「地理学徒なるもの、まずは高いところへ行け!」との教えを忠実に守り、ライオンズヘッドの断崖絶壁を登る。この都市のシンボルでもあるテーブルマウンテン、そして美しい街並みを一望できる素晴らしい眺めだ。

ライオンズヘッドから背後にロベン島を臨む

観光客が集まるウォーターフロント地区を歩けば、まるでシドニーかオークランドに来たんだっけ?と錯覚してしまう。かつて南アフリカを植民地化したイギリスは、この土地をオーストラリアやニュージーランドのようににしようと考えていたのだ。

V&Aウォーターフロント地区

南アフリカ共和国としての歴史は、ポルトガルのバルトロメウ=ディアスが1488年に喜望峰を発見したことに遡る。その後、オランダ系の白人が入植し、自分たちを「アフリカーナー」と名乗った。

Cape of “Good” Hope(喜望峰)

1899年、イギリスとアフリカーナーによる戦争によってイギリスが勝利した。その後、イギリスの植民地時代を経て、1910年には南アフリカ共和国として独立した。1948年、経済的弱者となっていたアフリカーナーの救済として、あの忌まわしき政策が始まった。

アパルトヘイトだ。

人種差別を擬似体験できるアパルトヘイトミュージアムの入り口

アパルトヘイト時代、1割程度の白人が豊かな8割の土地を搾取し、非白人である黒人やカラード(混血)、アジア人は、住む場所を奪われ、不毛で辺境な土地に追いやられた。また、レストランや交通機関、トイレなどの公共施設は白人とそれ以外の人種用に分離され、異人種間での結婚はおろか恋愛さえも禁じられた。さらに非白人全体に対する証明書の所持義務化、参政権否定、人種別に教育、職業・職種・賃金を規定、そして黒人の抗議・反対運動を禁止した。

南アフリカはダイヤモンドや金、レアメタルが豊富であることもあり、当時東西冷戦中という状況も相まって、欧米列強は資源の安定確保を目論んで見て見ぬふりをしていた。しかし、次第に「人道に対する罪」として国連から非難された南アフリカは、国際的に孤独を深めた。

ちなみに日本は、世界中が批判した最中でも貿易を続け、南アフリカからは「名誉白人」として扱われ、一部規制が緩和されていた。


虹色の国を目指して

ロベン島は、単なる観光地以上の意味を持つ場所だ。ネルソン・マンデラは、反アパルトヘイト運動を扇動した政治犯として延べ27年間の収監のうち18年間もこの“監獄島”に幽閉されていた。

現在、この島は自由と平等の象徴として、また歴史の痛みを忘れないための場所として、多くの人々が訪れ、ロベン島は1999年に世界文化遺産に登録された。登録の理由は、「人間の精神性の勝利」だ。

収監されていたガイドさんから当時の様子を伺う

1994年、ネルソン・マンデラが初の黒人大統領に就き、ついにアパルトヘイト政策は終わりを迎えることになる。マンデラは、レインボーネーションを掲げ、黒人だけでなくアジア人も、性的マイノリティの人も、障がいを持った人も、ともに生きる。そんな社会に転換しようとしたのだ。現在、アフリカ大陸で唯一同性婚が認められている国であり、2023年には12番目の公用語として「手話」が憲法に記載された。


アートの力を信じる

ダウンタウンから程近くに、ボカープという地区がある。カラフルな街並みは観光資源にもなっているが、そのルーツはカラードと呼ばれる人たち、特にマレー系の人々の居住区となっている。アパルトヘイト時代、非白人の人々は自分たちが住む場所はおろか、色すら自由に決められなかった。

カラフルな街並みが続く

現在は、人々が自分たちのアイデンティティを示すために、色鮮やかな建物にしているのだ。マレー系の人々のほとんどがムスリムであることから、パレスチナを想うアートが至るところに見られた。イスラエルは現代のアパルトヘイトを行っていると批判し、パレスチナに連帯を示している。

滞在中、とにかくパブリックアートが目についた。絵だけでなく、創作物や音楽、そしてダンス。魂を込めて声を上げ、社会を変えたきた実感があるからこそ、論理を超えたアートの力を、人々は信じているように思えた。


「異質の他者を認める」とは

しかし、その背後には南アフリカが抱える複雑な現実が隠れている。現在、南アフリカは世界一の経済格差大国とも言われる。統計の「平均」がこんなに役に立たない国もないだろう。“政治的”アパルトヘイトは法制上終わったとしても、既得権益で一部の人間が富を独占し、非白人の多くは低賃金労働で搾取されている。“経済的”アパルトヘイトは、未だに続いているのだ。

PHOTOGRAPH BY JOHNNY MILLER(National Geographic JAPANより)

ケープタウン滞在の後半、郊外にある大規模なタウンシップ・ランガを訪れた。タウンシップとは、アパルトヘイト時代の非白人居住区のこと。一見すると何の変哲もない住宅街と見間違えるかもしれない。しかし、どこを見渡しても白人の姿はない。

左はアパルトヘイト時、右はアパルトヘイト後の公共住宅

その一角・・・といっても大変広いのだが、1万人以上の人々が「シャックス」と呼ばれるバラックに住んでいた。失火があればすぐに延焼してしまうほどの密度、垂れ流された下水、散乱するゴミ、そのゴミで生計を立てる人、いつから着てるのか分からない服、トウモロコシの粉を溶いたスープで命をつなぐ人々・・・。

勤めている学校には、「異質の他者を認める」というカルチャーが浸透している。しかし、今回の旅をアレンジして下さった南アフリカ在住の伴優香子さんとの対話の中で、気付かされたことがある(南アフリカについて詳しく知りたい方は、伴さんのnoteが激オススメです)。

そもそも、「異質の他者を認める」という言葉を考える際に、「認める側」と「認められる側」がいるっていう事実があり、そこには無自覚な権力の不均衡があるのではないか。

「異質の他者を認めるべきではない!」と声高に叫ぶ異質の他者も、認めるべきなのか。

「異質の他者を認める」というのは、「あなたがそこにいるのは構わない」として虐げることさえしなければ、この経済格差と機会格差を目の前にして、果たしてそれで「認める」こととして十分と言えるだろうか―――。

もし目の前にマルクス・ガブリエルがいたとしたら、他者の存在を単に「認める」だけでは不十分だと答えるだろう。他者を「認める」とは、その存在を単に容認したり不干渉であったりするのではない。異質である他者と認め合うとは、対話によって互いを理解しようとし続け、協働的な「意味」や「価値」を構築することかもしれない。

課題が積みあがる現実を前に、哲学は机上の空論と揶揄されるかもしれない。しかし、思考の抽象度を一つ上げて理想を掲げ、現実を変える努力を積み重ねなければ、僕らはどこに行くこともできない。



あなたがそれをするのは・・・

シャックスのエリアを歩いていると、子どもたちが後ろから追いかけてきた。「うわぁ、ストリートチルドレンに囲まれる・・・」と脳裏によぎった次の瞬間。

何人もの子どもたちから、ハグされたのだ。

もう、自分のことばっかり考えている自分が、本当に恥ずかしくて、消えてなくなりたかった。自分の娘や息子と同じくらいの幼い子どもたちを、ただ愛情を求めていただけかもしれない子どもたちを・・・経験が邪魔して、疑ってしまったのだ。先入観や偏見が、無意識のうちに自分を蝕んでいた。

青年期をこの国で過ごし、収監されながらも法学を志し、そして祖国インドのために闘ったマハトマ・ガンジー。何度も引用している言葉を、何度だって、戒めのために書き記しておきたい。

Almost anything you do will be insignificant, but you must do it. We do these things not to change the world, but so that the world will not change us.

あなたの行動がほとんど無意味であったとしても、それでもあなたはしなくてはならない。それは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。

Mahatma Gandhi

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