「和賀英良」獄中からの手紙(6) 美校と音校
―美校のバタ丼―
そのパーティーは上野の不忍池のほとりにある老舗のレストランで開催されていた。芸大の打楽器科教授である丸山孝弘の最終講義、そして定年退官記念コンサートが上野公園にある芸大奏楽堂で行われ、その打ち上げの会場となったこの不忍池のほとりにあるレストランには、たくさんの音楽関係者や芸術家があふれていた。
このレストランは烏丸教授が和賀を誘って昼食を食べにくるお気に入りの場所であり、そのときのメニューはいつも二人とも「ハヤシライス」だった。教授と食べるハヤシライスは、和賀にとってはごちそうで美味だったが、和賀の中では上野の森と「はやしライス=林ライス」というイメージが重なって、森林の中に一人迷い込んだような、よくわからない妄想を打ち消すのにいつも必死であった。
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関係諸氏のスピーチが終わり歓談となった頃、烏丸教授が急に和賀の隣に来て腕をつかんで言った。
「おう、英良君、ちょっと紹介する。この人は田所佐知子さん、藝大美術で彫刻専攻4年だよ」
教授は少し酔いが回ったのか、甲高い声で横にいる女性を和賀に紹介した。耳が見えるショートカットの髪にラピスラズリの大きなイヤリング、そして裾の広いフレアージーンズに花柄のシャツというヒッピー風なファッションは芸術家が集まるパーティーでも周囲の目を引いていた。
「実は彼女が子供のころからよく知っているんだよ、芸大生のときにこちらのお宅にずっと下宿していたからね。おまけに父上は政治家の田所大臣なんだ、これはちょっと余計かな、では失礼」
教授は慌てて他の人を探すようにして立ち去った。和賀と佐知子は少し距離を置き、お互いに気後れしながら立っていた。
「はじめまして、先生の下で作曲を勉強しています和賀といいます」
和賀は先生の手前、あまり興味のない声色で自己紹介した。
「あら、作曲科ですの?なにか美校のほうでお見掛けしたような気がいたしますわ」佐知子はすこし顔を赤らめて言った。
「それはたぶん大浦食堂でしょう、よく行きますから」
「あら、わたくしも良くいきますのよ、いつもバタ丼です、バタ丼大好きなんです」急に佐知子が急にキラキラと目を輝かせて言った。
「あ、自分もいつもそうです、バタ丼、美味いですよね!」
佐知子との距離が縮まった気がして、和賀は彼女に半歩近づいた。そして佐和子から柑橘系のコロンの香りがすることに気が付いて、おもわず目を大きく見開いた。
安くて美味い「バタ丼」のことが好き、という佐知子に和賀は急に興味がわいてきた。自分も放浪時代のころからひもじい思いで生活してきたことを思い出すと、大学学食の質素などんぶりが素晴らしいごちそうに見えるのはもちろんだった。そして裕福に育ったはずの佐知子がそれを屈託なく食べることを知り意外に思った。和賀には、目の前にいる佐知子が無邪気に遊ぶ子供のように見えてきた。
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第7話: https://note.com/ryohei_imanishi/n/nfa6dee3e90a6
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