カフカ著『掟の門前』への新説
カフカの小説の一エピソードに「掟の門前」がある。詳しい内容は成書にゆずる。これまで有名どころだとデリダかな、ずいぶんと論じられてきた。
私は、カフカが常に絶えず死を考えていたことから、これまでと全く違う、うつ病臨床からみた新説を披露したい。
掟とは、門前に立つ男を束縛するものである。私からみて、その掟とは「その人の死」ではあるまいか。大胆かな。
掟の門の向こうに何かがあるらしい、門前以外にも奥には門番が何人もいるらしい。それは人の心の奥の奥にある「死の深淵」をのぞきこむカフカの筋立てであろう。
掟の門は、常に開かれ、閉じられることも鍵がかかることもない。門番がいるためもあって門前まで来た一農夫は入ることができない。
私は入らなくて良かったと思っている。
それは「死の深淵に開かれた門」であるに違いないと思う。
門番はわずらわしい存在として描かれているが死を止める役割を担っている。
私のようにそんなに門に入ることは危ないと考えていいものか訝しがるかもしれない。。
なぜ農夫はそこにいなければならないのか。
また門をくぐって何になるのであろう。
謎めいているので新説を。農夫のためだけに開かれた門とは、「見える暗闇」というか、ブランショ=レヴィナスのいう「第二の夜」というか、非人称の無の世界ではないか。
うつ病臨床で言えば「死の扉が開かれた®状態」である。それはうつ病で希死念慮が強い人にはほとんど扉が見えているらしい。実際何度も確認して否定されたことがない。うつ病をもつ人は「わかりっこない」心理を持つという。そのうつ病の方たちが希死念慮について「死の扉が開かれた®」状態かと問うと認めてしまわれる。
さてカフカには、カフカの小説にも、たえず死が暗い影を落としていた。
「掟の門前」でなぜ農夫は立ち去らず門前にいつづけたのか。故郷に戻っても良いはずなのに。門前にいなくてはならない理由があったのである。
私の「掟の門前」新説とは、掟の門前とは死をめぐる、もっというと自死をめぐるものであるというものである。掟とはその人の死であろう。