№4 これまでの順子さん ~告知~
僕の妻の順子さんは、「多系統萎縮症(MSA)」という原因不明の難病に罹患しています。
病名を告げられ、確定診断をうけてから4年がたちます。順子さんは、バリアフリーの室内で車椅子で暮らしています。最近では、介護ベットの中で過ごす時間も増えました。
ここに転居したのは2年前です。公営のバリアフリーな障害者住宅に運よく入居できたおかげです。
食事の用意は僕にたよっても、洗い物は順子さん。台所シンクは、車椅子でも洗い物ができる高さに設置され、水道の蛇口も手を延ばせば届く位置にあります。洗濯は、基本は洗濯機がするもので、ベランダで洗濯物を干すことができれば完了です。高い位置の物干し竿では車椅子では手がとどきません。手ごろな高さの折り畳みスタンドをベランダに置いて、物干し竿の位置も一番下まで降ろしました。掃除だって、軽量な充電式の掃除機があれば何とかなるし、ロボット掃除機は必要ありません。モップを使ってフローリングを拭いたり、家具や調度品のホコリも気になりますが、もともと掃除が苦手な順子さんにとっては、気になることもさほどありません。手が震えて包丁をもつことは危険なので、調理をするのは無理ですが、ほかの家事は工夫をすれば、なんとかなるのです。
防犯ベルの音と、「マグマ大使~。」、トイレから順子さんのか細い声が聞こえます。僕は、両手をグーにして、右手をめいっぱいにのばし、左手を肩のあたりに添えて、そう、鉄腕アトムの飛行姿勢でトイレに向かいます。
順子さんの世代でも知らないマグマ大使ですが、手塚治の漫画が原作で、1960年代に放送されたテレビのヒーロードラマでした。主人公のマモル少年が笛をふいて「マグマ大使~。」と呼べば、マグマ大使はどこにでもあらわれ、助けてくれます。
順子さんの首には、子どもが登校中の安全につかう防犯ブザーがぶら下がっています。せまい家ですが、僕が寝ているとき、書斎にしている部屋にこもっているとき、声も弱まり、整音もむずかしい順子さんには、マグマ大使を呼ぶマモル少年の笛が必要なのです。
順子さんはトイレでのパンツの上げ下げが苦手になっています。介護するほうも、介護されるほうも、やるせなく、卑屈になりかねない障害者生活です。できれば明るく暮らしたい。順子さんに笑ってすごしてほしいと、「マグマ大使~。」の、おバカなルーティンがはじまりました。
バリアフリーのこの部屋、順子さんの生活も大きく変わりました。順子さんにはもう家事はできません。「マグマ大使って、なに」、順子さんの問いには一切答えず、僕は鉄腕アトムのポーズでマグマ大使をやり続け、順子さんの介助をしています。
順子さん、告知される
前回(№3)の総合内科で撮影したCT映像などの診療情報を持参し、2019年12月11日、別の総合病院で脳神経内科の医師に見ていただきました。今回もまた、若い男性の医師でした。
専門医の診断も前回の診断とおなじように、小脳が若干小さくなっているのではないかとの見立てでした。そして、順子さんの病気は「脊椎小脳変性症(SCD)」ではないかと、はじめて聞く病名を告げられました。僕は、「へんせい」という漢字が思い浮かばず、どのように書くのですかと、おもわずたずねました。医師は、テーブルに白紙をおき、「変性」と大きく書き、順子さんと僕を交互にみつめました。
「脊椎小脳変性症(SCD)」とは、脊椎や小脳という、運動機能をつかさどり、命の根幹にかかわる器官が、変性(壊れる)する原因不明で、現在のところ治療方法もない不治の病だといいます。
「この病気の方に、いつもお話しするのですが」と、前置きをして、
「砂時計の砂の落ちるスピードが速くなった」と、
そんな風に、医師はこの病気をたとえました。
僕の脳裏には砂時計が浮かびます。
砂時計の真ん中に位置する重なる三角形の頂点がゆるくなって、点から面に
変わる。
面は拡がり、砂の落ちる量が増える。
そして、砂は一度にどっと下に消える。
勢いよく砂の流れる砂時計は、長針がぐるぐると早回りする柱時計を連想させた。壊れた小脳と壊れた時間。命の比喩としてはデリカシーにかける、そんな、順子さんへの病名告知の瞬間でした。
医師は、「老い」によって生じる変化と、この病気との類似性についても話されました。
おっしゃる通り、誰でも、いや多くの人が、歳をとればいろいろなものを失います。身体的にも、社会的にも。歩行困難になることもあるだろう。もの忘れもするだろう。ボケて徘徊するかもしれない。寝たきりになるかもしれない。そうだとしても、順子さんはまだ50歳です。
順子さんの失った小脳も、運動機能も、復活しない。徐々に病気は進行し、そして死にいたる。どんな言葉で表現しても、考えれば考えるほど、ムゴイはなしです。沈みだしたら、どこまでも沈んで、深い暗闇に囚われて、息もできずに溺れて、とっても苦しくて、どうしょうもない気持ちに負けそうになるのです。
江戸末期に活躍した思想家で、維新の元勲たちの先生でもあった吉田松陰には、処刑される前に牢獄で書いた『『留魂録』』という著作が残っています。
「人生は、かなずしも巡る四季のように春夏秋冬のすべてをが備わっていない。それでも、十歳で死ぬ人には、その十歳の命の中に、二十歳には二十歳の、三十歳には三十歳の、そして五十歳、百歳にもそれぞれ人生の四季がある。十歳の命を短いというのは、わずか数日の命の夏蝉に、樹齢数百年の霊木のように長く生きよと願うようなものである。百歳の命が長いというのは、長く生きてきた霊木に、夏の蝉のように生きよと望むようなもので、どちらにしても人生を全うしたことにはならない。」
『吉田松陰 『留魂録』(吉田薫 訳注)』をもとに、僕なりに訳してみました。(以下同じ)吉田松陰は、この文章の前段で、「俺は死ぬことが決まっている。けれど、人生を四季の巡りと考えると、やすらかな心になる。俺は30歳。人生の四季を生きてきたけど、秋の実りを得ているかといえば確かではない。でも、俺の生きていたことを、みんなが忘れずいてくれたのなら、きっとそれが、俺にとっての秋の実りだろう。」といっています。
唐突に、吉田松陰『留魂録』を引用したのは、僕が死を思うとき、必ずこの著書を思い出すからです。聖者かヒーロー気分にも読める文章ですが、松陰は「人生は未完成だけれど、その思いは生き残った人につながる」と信じて、『留魂録』に残したと僕は考えています。そして、頭では理解できても、ジジイになった今でも、僕はまだ、このように死を受け入れることはできません。
それでも、牢獄の吉田松陰のように、順子さんは病気と死を受け入れているようにも見えます。そして、僕は僕で、こころに浮かんでいたのは、こんな風景でした。
「この道の角を曲がれば、子どもたちが小さいころ、子犬と駆け回った桜木に囲まれた公園に出会う。僕は、子どもたちに声をあげて叫んでいる。順子さんがそばで笑っている。子どもたちは子犬と駆け回る。昔から知っているなじみのある風景と、あたりまえの日常。そして、すべてをつつみ込む穏やで暖かな陽ざし。」
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