№10 これまでの順子さん ~排泄~
僕の妻の順子さんは、「多系統萎縮症(MSA)」という原因不明の難病に罹患しています。
順子さんの病気(多系統萎縮症)は、回復の見込みのない病です。小脳や自律神経といった人の生存にとって大切な場所に、わけのわからない、生きていくには最悪な変異が起こって、だんだんと普通の生活が困難になってゆく、極めてやっかいな病気です。
今の順子さんは歩けません。立てません。4年前にこの病気の診断を受けた頃は、「ふらつき」や「めまい」がありましたが、自分の足で歩いていました。しかし、数か月すると、杖が必要になり、2年が経過したころには車椅子での生活にかわりました。今ではほぼベットでの臥床生活をよぎなくされています。
今、順子さんはトイレに行くことはありません。では、どのように排泄しているかといいますと、下着はオムツに変わりました。排尿は管につながれ、排便は看護師のコントロールで行っています。
と、言われても「なんのこっちゃ」ですよね。僕も、医療に疎いし、順子さんとの生活がなければ、排泄の問題をこんなに考えることは、たぶん生涯なかったとおもいます。
下着はオムツに変わりました。高齢者の尿漏れ用の「スルッとはけます」的なやわなオムツ(紙パンツ)じゃありません。赤ちゃんのオムツを大きくした本格的なオムツです。ベッドでの臥床生活でも、排泄がシーツまで漏れないように幅広にできています。さらに、生理用ナプキンを大きくした紙パッドを陰部あたりに重ねて置いています。陰部を清潔にするためにも、紙パッドの交換は頻繁に行っています。
排尿は、「膀胱留置カテーテル」、通称バルーンという装置を膀胱内と尿道に設置して、膀胱から排尿を直接、外にある畜尿パックに排出します。尿道からチューブが出ていて、そのチューブは大きなペットボトルくらいの容量がある袋につながっています。順子さんは、常にその状態で暮らしています。陰部に器具を挿入するので感染症のリスクもあります。4週に一度の交換が必要で、尿の滞留や菌の侵入などにも注意が欠かせません。
車椅子での移動時にもバルーンはついてくるわけで、畜尿パックを小粋なエコバックに入れて、チューブの存在を目立たぬように隠して、それでも畜尿パックの高さは、逆流しないように膀胱の位置より下にと配慮しながらの移動になります。はた目には、たぶん気づかれることはありません。
では、排便はといいますと、看護師のコントロールとは言いましたが、人の力で排便をコントロールするのは実際は不可能です。ですが、極度な便秘もちな順子さんは、ほおっておけば1週間でも排便がありません。そこで、週に2度来ていただいている看護師さんに、浣腸などの処理をしていたただいて、排便をむりやり行います。もちろん、自然排便がいいわけで、医師からも不適切だと言われ、酸化マグネシウムなどの薬を処方していただいてます。
ですが、順子さんには順子さんのおもいもあります。
順子さんは、発症して身体の動きが悪くなっても、頑張って自分でトイレに向かいました。お下のことは、自分が自分としてするべき基本中の基本の所作で、大げさに言えば、自己存在の身体的根源というか、自尊心や羞恥心といった普段は厚いベールの中に隠しながらも、自分の本質に直結した部分で、無造作につつかれると、こころにビンビンに響くとってもセンシティブな問題です。
例えば、大のおとながウンチを漏らそうものなら、「人としてどうなの」と、「お酒を飲み過ぎた」、「おなかの具合が急に・・・」とどんな言い訳をしても、白い目で蔑まされそうに思うのは僕だけでしょうか。僕の経験でも、牛乳を飲むと下痢をする体質でありながら牛乳が好きで、酒を飲んだ翌日には、あとさき構わず、喉の乾きに牛乳を一気飲み。ベッドにもどって眠りにつくも、急なさしこみ、おなかがゴロゴロ。急いでトイレに向かうが、間に合わずパンツを汚す。勿論、こんな始末、家族に言えるわけありません。パンツについた便を紙でふき取り、下洗いして、奥の方に隠すように洗濯機に入れる。なかったことにしようにも、後ろめたさと、恥ずかしさが、つきまといます。
順子さんの気持ちは、痛いほどわかります。若い頃から、女性によくある便秘があって、それに加えて自律性疾患という病気がかさなり、さらにトイレに行くのにも介助が必要な身体になってしまいました。酸化マグネシウムなどの下剤が処方されていますが、急に効果を発揮して暴走して、便意や排便のコントロールが苦手な順子さんは、不本意にもトイレに間に合わない事態が突然やってきます。しようがないことなのですが、「ごめんなさい」と順子さんは気に病みます。そして、下剤を飲むのも嫌がるようになりました。
順子さん、ひとりでトイレに行けなくなる
2024年が始まりました。確定診断から4年が過ぎました。
順子さんは、なんとか一人でトイレを使っていました。壁により掛かり、あるいは、からだを頭から前方に倒すことでお尻を上げて、パンツの上げ下げをする。後ろに倒れるようにトイレタンクによりかかり股間のしまつをする。車椅子の肘置きやトイレに多数設置した手すりを利用して、まるでボルダリングさながら車椅子と便座を行き来していました。順子さんの病気は、進行性で運動機能が日々失われていきます。ですから、順子さんのボルダリングは、同じコースなのに、毎日、複雑で難関なコースに変わっていくボルダリングでした。
リスクの多いそんな所作ですから、たまに失敗がありました。「マグマ大使〜」の急援要請で僕はトイレに向かいます。順子さんは便器と壁の間に挟まり、身動きできなくなっています。手脚の力が極度に減少しているため、倒れたら自分では起き上がれません。僕の必死なレスキューがはじまります。
転倒は続きました。
1年ほど前のことです。まだ車椅子を使いながら洗濯をして、ベランダで洗濯物を干すことができたころの話です。僕は仕事で不在で、ハルパーさんや看護師さんが決められた時間に来ていただくことになっていました。
順子さんは、ベランダで洗濯物を入れていたそうです。落としたものを拾おうとしたのか、そのとき車椅子の片輪がベランダの溝にはまり、車椅子が転倒。もちろん自力で体勢を戻すことができず。たまたま、隣の部屋の方に発見されるまでの2時間半、倒れたままベランダにいたそうです。時間帯が介助者の来ないときで、真冬でなくてよかったとつくづくおもいます。その後は、順子さんひとりでベランダに出ることは厳禁としました。
順子さんにとって、ベランダだけではなくトイレも危険な場所になりつつありました。
自力での排泄を介助するため、トイレ内に介護リフトを設置することしました。「床走行式電動介護リフト KQ-781( パラマウントベッド)」といいます。介護レンタルで1400単位/月になります。吊り下げのスリングシート(吊り具)は、脇の下に装着するベルト型を選びました。(ベルトは介護レンタル品ではなく購入になりました。自費購入後に、介護サービス利用を申請すれば、介護費負担割の応じて返金されます。)
順子さんは車椅子でトイレに移動します。便座とちょうど90°に位置に車椅子をおいて、リモコン操作でリフトをおろし、脇の下にベルトをつけます。リフトを上げながらトイレ回りに設置した手すりをつたいながら、からだを振り子の要領で90°ひねって便座に移る。これが、当初のもくろみで、パンツの上げ下げも、排泄後のお尻のケアも、便座から車椅子に戻ることも、順子さん自身でできる。介護リハビリをお願いしている作業療法士のDさん、介護用品を提供してくださっている業者のYさんほか、チーム順子(順子さんを支えてくれる看護・リハ・介助のみなさん)の方々の意見を参考にしながらも、このアイデアをおもいついた僕には、多少の自己陶酔もあって、トイレへの介護リフトの設置を決めた次第です。
ところが、いざ設置して順子さんに操作してもらうと、おもうように移動できないことがすぐにわかりました。まず、ブームと呼ばれる上下に上げ下げする部位が横に振れない構造であることです。トイレに車椅子を入れた位置を真正面にしてリフトを設置すると、ベルトをつけるときはブームの動きに正対しているわけだけど、便座の位置では90°ずれるわけで、ハンガーから長いストラップ(紐)に繋がれたベルトと順子さんのからだは、便座へ向けて移動するたびにストライプ(紐)はひし形に歪むわけで、ハンガーから吊り下がるストライプ(紐)の長さを調整しても、うまくいきません。便座に正対する位置にリフトを設置しても同じことで、車椅子がおける位置で、かつ、より便座に近い位置でリフトと正対する場所に移動してみましたが、おおきなリフトの脚がじゃまになり車椅子が入らず、この介護リフトはトイレ介助に使用できない。と、そのとき、やっと理解した次第です。そうです。ブームが横に触れる介護リフトがあればよい。そのとおりなのですが、横揺れするタイプの介護リフトは、その動作を支えるための構造が必要で、脚がより大きく、とてもトイレに設置できませんでした。
介護リフトは、トイレに設置しましたが、順子さんひとりでトイレをすることは諦めました。車椅子から便座への移乗は僕が介助して、順子さんを吊り上げるスリングシート(吊り具)のベルトを、脇の下に装着するのは僕の仕事、上下に上げ下げするリモコンも僕が操作して、順子さんを吊り上げます。
「あんかうや孕み女の釣るし斬り」(夏目漱石)
実に品のない夏目漱石の俳句ですし、順子さんは孕み女でもないのですが、この句のアンコウのように吊るしあげられて、パンツを下して、また、リモコン操作で便座に着地する。すべてが僕の仕事になりました。
今、順子さんは一人ではトイレにも行けません。トイレに行くには、まずベッドから車椅子に移乗して、車椅子でトイレに向かいます。トイレでは、また車椅子から便座に移ります。便座に座ったからといってほっとできません。ここから難関な下着をおろす作業、排尿、排便、そしてお尻ふきと、普通の方は気に留めもしないあたりまえな所作でも、上肢、下肢、体幹に不具合のお持ちの方には、実に厄介で、面倒な仕事がまっています。僕は、介助リフトを操作しながら、その難解な排泄のお手伝いをしています。
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