さよならについての語り方が分からない
最初は妻のばあちゃん、自分のじいちゃん、との死別を通じて四十九日という法要の効果を身をもって実感したことで、この体験を語りたいと思った
自分がいままでちゃんと考えたことがなかった四十九日という宗教的なイベントが、じつは昔から行われ続けていた理由があったんだ、たしかに心の持ち方が変わっていることに驚いた
この体験から、四十九日という固定概念を壊して、音楽と詩の朗読による7週間のセッションだと捉え直すと、新たな発見があるんじゃないかと閃いた
ただ、いとこのばあちゃんの通夜に参列して、自分でも想像してなかったように泣いてしまい、「頼むからこれ以上だれも死なないでくれ」と死別を拒否し始めた自分に気がついた
これまでの自分は、人の死についても自分はちゃんと向き合えていると思っていた
でも、いとこのばあちゃんとの死別で自分の中でなにかが変わった
自分は「人が死ぬことについて拒否しはじめている」
「人は必ず死ぬ運命を背負っていて、それは自分も含めて全ての人が同じであること」
それすらも拒否していて、もし次に誰かのお通夜に通うことになったら自分はやばいんじゃないかと思い始めた
そこから、途中まで書き始めていた「故人と向き合うための7週間セッション」というテーマをやめた
その人とのお別れ以前に、周りにいる大切な人が死ぬこと自体を自分が拒否しているから
ただ、じいちゃんばあちゃんとの別れた時のこの気持ちを、じいちゃんばあちゃんのために何か残したい気持ちは変わらない
でもそれは「家族が亡くなった悲しい話の共有」ではなくて
「固定概念を横に置いておくような創造的な楽しい話」にしたい
では語り手の自分がどうなりたいんだろう?
自分も家族も友達も、いつか死んで消えてなくなることを受け入れるようになりたい
そうなるために、自分がどうありたいんだろう?
死ぬこと、時間が有限であることを理解している状態でありたい
もう少し踏み込むと?
死と向き合う過程をまずは1人の人間として味わった
そうしていくうちに自分のコップがいっぱいになった
見方をかえたり、他の人の経験からヒントを得て、味わいながらも無理せずコップがいっぱいにならない方法を見つけたい
その経験を色んな人と話したい
そのヒントはこのあたりにありそうだ
仏教の四十九日
動的平衡(絶え間ない変化の中でバランスが保たれている状態)
ハイデガーの「存在と時間」
松本隆の「君は天然色」
グリーフケア(喪失との向き合い方)
パタンランゲージ(沢山の人の経験を蓄積して実践的な対処法としてまとめる方法。1970年代に建築家クリストファー・アレグザンダーが提唱した知識記述の方法。)
次のnoteでヒントから視野が広がった、喪失と再出発のことをテキストにしてみようと思う