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その一言に「愛」はあるか

人間が他の生物と違う1つの点は、「言葉」を持っていることだ。
言葉を媒介してコミュニケーションをとっている。

日常生活を送っていく中で、誰かと会話をする機会は多い。
(休みの日とか引きこもったりすると一言もしゃべらないことがあるが)

自分が思っていることを相手は理解できないし、
相手が思っていることを自分は理解できない。

そこに「言葉」が介在して、思いを伝えることで、初めて伝わる。


これってすごい恵まれていることなんだと思う。
だけど人間は基本的にそれが最初から備わっていて(言葉を覚える過程はあるけど)、あまりそこに価値を感じていないんじゃないか。

だから特に何も気にせずに言葉を発する。

大事な場面での言葉は、結構言葉選びを意識する。
例えば面接での言葉とか、例えば愛の告白とか。

「ここは絶対外せない!!」

という場面は入念に入念に言葉を選ぶはずだ。そしてそこにはきっと自分なりの「愛」がいっぱい詰まっている。

でも人間が言葉を発する機会の中で、そんな場面はごく稀でしかない。基本的には何気ない日常の中で発することが多い。

一体どれだけその日常の中の言葉を意識できているだろうか、と考えさせられる。


言葉は人を救うことがある。
一方で、言葉は人を傷つけることもある。

それは、自分が意図していなくても、相手がそう受け取った瞬間「それ」になる。

つまり知らず知らずに救っていることもあれば、
知らず知らずのうちに傷つけ、追い込んでいることもあるのだ。

前者であれば最高だ。

あるYouTubeでこんな会話がされていた。

「あの人が言ってくれた「美味しい」とか「好き」って言葉、本人はそんなつもりなくても案外心に残ったりするんだよね。1回言われただけでも、それが支えになったりする」

すごくいい表現だなと思った。誰かに言われた一言で、ここまで人生が明るくなるって最高なことだと思う。

一方で後者はどうだろう。

わかりやすいのは誹謗中傷か。
心無い言葉の矢がぶすぶすと刺さり、傷ついていく。発する側にとっては思ったことを発しただけかもしれない。だけど、いやだからそこには「愛」がない。

いくら厳しい言葉でも、誰に言われるか、どういわれるかで言葉に「愛」を感じる。「愛」を感じればその「愛」に答えたいと思う。でも「愛」の無い言葉には、何気なく言われたそんな言葉には、ただただ傷つけられる。


でもこれって「愛ある言葉でいっぱいにしましょう!」と言って簡単に変わるものでもない。それが叶うのだったらすでに変わってるはずだ。

結局変えられるのは気づいていた人だけで、変えられるのは自分だけ。

これを「1人変わったところでしょうがない」と捉えるか、「1人ずつ変わっていくことが大事」と捉えるかでも大きく変わると思っていて。

少なくとも「自分はどうありたいか」を考えるべきだと思っている。


というわけで、
私自身はもっともっと一言一言に「愛」を込めて、言葉選びと向き合って発していきたいなって。そんな言葉をお届けする媒体でありたいなって思う。



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塩浦良太
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