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違和感について

違和感について、ふと考えることがある。

例えば職業柄なのか、
「詳しくはこちら」と書いてあった先に何もリンクがないと違和感だし、1つのチラシに何の脈絡もなく様々な色やフォントが使われていると違和感。

画像の画質が悪いと違和感だし、人や物が途中で切れてしまっている画像も違和感だ。

でもそういったことに対して違和感センサーが反応しないからそれらは公開されるわけで、拡大解釈だけど、それによって世界が終わるわけでもないからそこまで大事じゃない。(自分にとっては大事だけど)


こんなことを言ってはいるものの、きっと自分にだって「他の人が気づいていて自分が気づけていないこと」ってあるんだと思う。

「なんであいつは気づかないんだ」

と思われていることもあるのかもな。

街中ではそんな違和感がいっぱい転がっている。
ポイ捨てされた空き缶や分別されていないゴミ、今パッと浮かんだのがそれくらいなんだけど、本当はもっともっと気づいている。


”気づいているけど他人事にしている”
”気づかないふりをしている”

これってあんまりよくない。
じゃあ自分が全てに対して当事者意識を持てているか、と胸に手を当てるとちょっと心が痛くなることもあるが、でも気づいたときは極力「自分が」対処や対応をするようにしている。

一方で、”気づけない”人もたくさんいる。

例えば冒頭に自分が書いたデザインに関しての違和感だってそう。
自分にとってはそれが普通になっているけど、相手にとってはそれが普通じゃなくて。

それがどんな意味や効果を持っているか理解をしていないから、それが「違和」だと気づかない、なんてことは往々にしてあるんじゃないかな、って。


だからこれはもう気づくのが難しい人に対して「気づきなさい!」というのは結構難解だと思っていて。

いかに気づいている人がそこに「違和」があることを示し、伝えていくかが大事なんだろうな、と。そんなことを思う次第である。


そりゃ生きていたら知らなくていいこともたくさんあるけれど、基本的にはいろんなことに気づいていろんなことを知っていったら、日常にどんどん色が増していくと思うし、人に優しくもなれると思うんだ。

そんなことを思った日。

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塩浦良太
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