結局最後に決めるのは「自分」だから。
まずもってタイトルの説明からしたい。
「」(かぎかっこ)つきの「自分」は、私であり、あなたである。
そう、場面場面で決断する本人自身。周りではない。
その前提をもって読み進めてほしい。
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冒頭に「#」を2つつけた。
それはつまり、就労支援の現場でも新卒採用の現場でも、いやなんなら人との関わりすべての場面において言えることがある。
それは「結局最後に決めるのは本人」ということ。
人はだれか相手と関わっていると相手を変えようとする傾向があると思っている。
例えば、「ここはこうしたほうがいいですよ」とか「ここの部分を変えていきましょう」とか、「ぜひ応募してくださいね」とか。
今パッと思いついたのがそんな感じだけど、それ以外にもいろいろあると思っていて。でも結局それって厳しい言い方をすると「相手が自分にとって都合のいい存在になってほしい」ということなのかな、って思う。
少し趣向を変えてみたい。
人はどうして期待をするんだろう。
どうして期待に反する結果だった時、「裏切られた」という気持ちになるんだろう。信じていたから?思うとおりにならなかったから?
人に期待すること自体は悪いことだと思っていない。
私も結構期待することがある。でも期待とは違う結果だった時、なんかちょっと悲しい気持ちになる。悲しい気持ちになっている自分を客観的に見て、醜く感じることがある。
そんな風にその瞬間は思うけど、時間が経てばまた誰かに期待をしている自分がいる。人間は人に期待をする生き物なのかな。
そもそもよく考えてみたい。
人は誰かの期待に応えるためだけに生活をしているわけじゃない。自分にとって都合のいいように期待をするのと同じように、目の前の相手も相手にとって都合の良いように私に対して期待をしているかもしれない。
それが「普通」だ。
だから相手の最後の決断までこっちで決めちゃおうというのはお門違いでおせっかいで、その人の人生の責任までとれるの?ということになってくる。
それでも期待をしたいというのであれば、その人にできるのは期待の方向に「きっかけ」や「気づき」を提供するまで。最後の決断は本人にゆだねなくてはならない。
私たちは、私たちにできることしかできないのだ。
すごく当たり前なことだけど、案外忘れがちなこと。
自分の手で変えられないところにまで一喜一憂していると少し疲れてしまう。
これは指をくわえてみている、という話ではない。
自分ができることに対してはベストを尽くし続けろ、ということ。
私たちが相手に与えられるのが「きっかけ」や「気づき」なのであれば、そのきっかけや気づきの提供の質を磨けばいい。選択肢を増やせばいい。
やれるだけのことをやって、それでもだめだったのならしょうがない。
それくらいの割り切りも、時には肝心だと思っている。
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最後にもう一度まとめたい。
自分の人生の選択を、ほかの人にされるのが嫌だと思うのと同じように、
ほかの人にとっても、「自分」の人生の選択を「ほかの人」にされるのは嫌なものだ。
結局最後に決めるのは「自分」。
だから周りにできるのは、その決断に至るまでの質を上げること。
自分ができる、変えられる部分でベストを尽くすこと。
最後の「決断」は結果にすぎないということ。
そういった考えを、持ち合わせていたいな。