「僕ら」の心は誰が拾うんだろう
ちょっとだけ弱音を吐く。
昨日、「コップと自分」という記事を書いた。
学生との面談中に、その学生が大切にしている価値観に感銘を受けて記事にしたもの。
自分のコップが満たされてないと相手には与えられない。
むしろコップから溢れたものを「愛情」として与えることが出来る。
だからまずは自分を満たさないといけないんですよね、って。
昨日の記事を書きながら思ったことがある。
「今の自分は満たされているんだろうか?」
正直、自信を持って頷ける自分がいない。
だから学生のこの言葉が、響いたのかもしれない。
なんかすごく余裕がない自分もいるし、だからといってどうすればいいかわからず宙に浮いてる自分もいるし。それでも平然を装いながら日々を過ごしている自分もいるし。もしかしたら気づていないだけで、平然を装えていないかもしれないし。
就労支援という、いわば日々目の前の方の人生と向き合う仕事だけど、自分が自分の人生と向き合えているのか、って時々問いただしたくなる。
自分のことにも向き合いきれていない中で、目の前の方の人生に入り込んで気持ちが揺さぶられて。より「自分」がなんなのかわかんなくなって。
よく「自分」と「他人」を切り離して考えることが大事、って言うし、それが大事なのはわかるんだけど、たぶんそれが僕は苦手だ。ついつい入り込んでしまう。受け入れるんじゃなくて受け止める。わかっていても、難しい。
その方の人生に入り込んでサポートしていくのも「支援」の1つだと言えば1つだ。だってその方が目指す道の伴走をしていくのだから。
でも気づくと自分の足が地面についてないことがあって。バタバタしている自分がいて。
時々聞かれる、
「「支援」する人の心の支援って誰がするのか」
という意見にも納得できる気がする。
もちろん目の前の支援は全力で行う。それが使命だし、それにやりがいをもっているし、充実しているし。そこに対しての違和感はない。かといって自分の心がすり減ることがあるのも事実。
いざ仕事を終えて、自分が何者でもない「一人」となったとき、たまに虚無が訪れる。
いや、まあ自分でしろって話なんだけどね。だからこそ「自分の機嫌を自分でとる」っていうことが大事と言われるんだろうけど、それが僕は苦手だなって思う。
周りに相談するといっても、みんな忙しそうに見えて、何に気を遣っているのか自分の中で溜め込んで。唯一の救いがこうやってnoteに文字として起こせること。
せめてもの行為として、こうやって文字にして、自分自身と向き合ってる。
でも発想の転換をすれば、「悩めることがある」というのも恵まれているのかもしれない。まだ解決すべき課題があるっていうのも恵まれているのかもしれない。
ずっとずっと思い悩むと息切れしちゃうから、たまには休みを取って。また走り出して。
そうやって強く、長く自分と向き合っていければなと思う。
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