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言語化は「天体観測」のようなもの

歩いているときに、「ふっ」と言葉が降りてきた。

”言語化は「天体観測」のようなもの”

今日のパンチライン、タイトルだ。

天体観測、といっても私は理系じゃないし、なんならドがつくほどの文系。趣味で天体観測がしたころがあるわけでもない。小さいころによく星空は眺めていたが。

ここでいう「天体観測」はBUMP OF CHICKENさんの有名な曲の一つである。午前2時踏切に、望遠鏡を担いでいくシーンから始まるあの曲だ。

衝撃なのはあの曲が2001年にリリースされた曲であるということ。そう考えるとこの曲がリリースされた時、私は3歳。ビックリ。


話を本題に戻して。

どうして言語化が「天体観測」のようなものだと考えるのか。

サビにこんな歌詞がある。

「見えないものを見ようとして、望遠鏡を覗き込んだ」

言語化だってそうだ。まだそこにかたちとして存在しないものを、言葉として表現できないものを、なんとか見ようとして、なんとか言葉にしようとして自分の頭の中を覗き込んでいる状態だ。

サビはこう続く。

「静寂を切り裂いて、いくつも声が生まれたよ」

言葉に何もなっていない状態。まさに静寂だ。そこに言語化という作業をすることによってそれこそ「いくつもの声」が生まれる。どれが正解かはわか
らない。でも自分なりの複数の声が生まれる。

さらに、2番の冒頭の歌詞を見てほしい。

「気が付けばいつだって、ひたすら何か探している。幸せの定義とか、哀しみの置き場とか。」

もうこれは言語化に取りつかれた人だ。

一度言葉にすることが習慣になった人はもうそこから逃れられない。ひたすら何とか言葉にしようとしている。幸せの定義とか、哀しみの置き場なんてまさにnoteのタイトルでつけそうなフレーズだ。


天体観測は、別に全員が全員やらなくてもいいことだ。義務付けられているわけじゃない。だけどきっとやったら、望遠鏡から空を眺めたらきっと世界観が変わる気がする。

きっとそれ以前とそれ以後で、物事の受け止め方が変わる気がする。

そんな私は天体観測をしっかりやったことがないので何も説得力はないが(笑)

言語化もそうだと思っていて。

別に言語化することが義務付けられているわけじゃないし、言葉にならない魅力もある。見えているものごととさえ向き合っていけば最悪何とかなる。

でも言葉に出来た方が、きっと考え方や価値観って広がると思うし選択肢も増える。実際私も考える習慣が増えた。物事を受け止める幅が広がった気がする。


今日も明日も、私は見えないものを見ようとして自分の頭の中を覗き込む。そしてそれを言葉にする。

自分だけの「天体観測」はこれからもつづく。



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塩浦良太
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