深圳#3 ハイテク都市を支える城中村
深圳の最先端電子街「華強北」
筆者は深圳最大の電子街という異名がついて久しい街「華強北」の街を散策した。華強北は日本の秋葉原を模して造られた電子機器・部品の小売店集積地で、現在では秋葉原の30倍の規模を誇るといわれている。スマートフォンの修理店や无人超市などが立ち並ぶ華強北歩行のショッピングセンターでVILTROXの店舗を発見した。
近年、レンズといえば日本製(もしくはドイツ製)という世界共通の価値観が崩れつつある。VILTROXや7Artisansのように、中国深圳では多くのレンズブランドが生まれ、Amazonなどの通販を通して販売されている。
筆者もVILTROXのレンズを保有していた経験がある。1年ほどAPS-Cフォーマット用23mm(換算35mm)レンズを保有し、旅先でのスナップ等に利用していた。安物レンズとは思えないような端の描写性、堅牢な造りに魅力を感じた。現在は手放してしまっているが、印象的なメーカの1つである。
このビルにはVILTROXのように海外でも認知されている新興ブランドの店舗がある一方で、伝統的な(?)偽物ショップも存在していた。学校のあるような時間に学校に行くような年齢の少女が働いている。HUBLOTの腕時計(偽物)を売りつけられそうになったが、55元という安い値段であった一方で、あまりにもバリだらけで造りが甘かったため、購入は見送った。
10年後も華強北はハイテク産業の集積が進んでいるのか、それとも中国にもその波が到達しつつある少子化・不景気の影響で街が縮小しているのか、わからない。どちらにせよ、こういった偽物店は減っているに違いない。目に焼き付けて店を後にした。
ところで、華強北の帰宅ラッシュ、バス停には多くの若い労働者が並ぶ。自宅のある村へ向かうバスに乗り込み、帰宅するのである。同じバスに乗り込み、他の若者たちと同じ駅で降りてみることにした。
城中村の下町情緒
城中村の定義について振り返る。78年の改革開放以降において、都市の拡大に伴い都市近隣の農村は市街地への転用を迫られた。この際に、農地・宅地を国有地として収容された近隣の農民に対して、補償としてアパートが建てられた。しかしながら彼らは都市住民として生活するスキルセットを持ち合わせておらず、働き口を失っていた。
一方で同時期、都市における人手不足および農村の困窮に伴い、多くの農民工が都市へ流入していた。この結果、都市郊外に位置する安宿の需要が高まっていた。
そこで、アパートにに住む元農民たちはアパートを独自に増改築し、農民工に対する部屋の提供、飲食店、小売店の経営を行うことで生計を立てた。このようにして発生した、安宿、飲食店、小売店の密集地が城中村である。(孫ら, 計画行政 35(2), 2012)
下記は広州の城中村について紹介しているテレ東のドキュメンタリーだ。
1.向西村
さてバスは「向西村」と呼ばれる停留所で多くの人を吐き出した。向西村は城中村と呼ばれる中国特有の都市形態のひとつである。
ここ向西村も、もともと都市計画区域外だった深圳郊外に農民工が流入した結果形成されたと考えられる。結してスラム街のような類の場所ではなく、朝晩には一流企業が立ち並ぶオフィス街に向かう多くの通勤者が村の門から出てくる。
路地裏には人が2人すれ違うことができるだけの、わずかな空間がある。頭上には建物がせり出しており、昼間に降った雨が頭上に滴り落ちる。洗濯物が干されていて生活感を色濃く感じる場所だった。
過去には違法歓楽街としてその名を馳せたと友人から聞いていたが、そのような様子はなく、むしろ近所の学校へ通学する中高生から大人まで、みなより沿って屋台や店先での食事を楽しむ姿が印象的だった。
2.罗湖村
次に向かったのは香港と深圳の国境付近の街、罗湖村。香港からの出張で来訪する香港人やその他外国人が入境した後の入り口となる街である。ここには古くから城中村が形成されていた。
食堂や足浴、床屋など、地元住民向けの商店が多い向西村と違い、罗湖村には簡単な宿泊施設が多く、多くの客引きが声をかけてきた。客引きは50代以上の婦人がおおく、普通話で応対すると「部屋を見るだけでも・・」としつこく袖をひいてくるので、実際について行って部屋を見せてもらった。
あまりきれいな場所ではないが、ベッドと机が置いてあり、私の見たところはシャワーがなかった。。近所の足浴などで済ませる前提なのだろう。
また、「住宿」や「招待所」と呼ばれ、法的に登録された簡易宿泊施設だけでなく看板もない、部屋だけを貸しているような宿も散見された。(日本でいうドヤのようなものである。いずれも「私は外国人だ」という点を打ち明けると残念な顔をしながら開放してもらえるので、冷やかしがはかどった。
村の入口付近には香港側から入境してきた人向けにサービスを提供する宿泊施設や按摩、足浴点が軒を連ねていた。下記1枚目の場所では、写真には見えないが、左手に按摩店が密集しており、短いスカートを履いた30~40才前後の女性が声をかけるなど、如何わしい香りが充満していた。
一方で、村の奥には食堂が軒を連ねていた。筆者はここで串揚げを数本食べ、村を後にした。
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