祖父の日記(サバン島抑留)最終回 サバン島最後の夜
人の好い日本人 三月二十三日
作業隊百名の班長となる。今日もバラワンに至る、ジャングルを縫う長蛇の列、荷を背負うての徒歩作業だ。 昨日の今日、日曜日の作業は嫌だ。班長となって指示する場合何か心の重苦しさを感ずる。 日本人って余りにも人が良いのではないだろうか。只日本へ帰すというオランダの言葉を信じて己れが権利を放棄する。日本人ってそんなに弱い民族なのだろうか。
今日の行軍で朝鮮作業隊の一人が、川岸に生えた毒草に触れ重患となる。 桑の葉に似た毒草には注意すべきだ。
声からし作業班長になる朝は
我も自ら苦役厭う
海面の遙か彼方に雲立ちて
見知らぬ国のある心地する
三月二十四日
砂の上に舟のみ残り白波の
引いては返し返しては引く
薪取作業 三月二十五日
鳥啼きて山は静かに雨降りぬ
葉末鳴るる音も微かに交りて
朽ちし葉の香り来りて手に掬ふ
谷川の水つめたかりける
三月二十六日
犬(監視兵)特に機嫌可。
切り開く藪の蔓草汁垂れて
むせ返る程香しにけり
三月二十七日
草刈作業午后七時迄行う。此の附近地の為風無く、藪蚊黟し。
草の根を叩き一日暮れにけり
腕は茅と蚊に傷つきて
草の果て海の光りて陽の沈む
海より出でて海に入る陽は
三月二十八日
玉石の並ぶ磯辺に今日もまた
苦役の石を運びけるかな
サバン島最後の夜 三月二十九日
愈々明日乗船と決った。 まさかと思っていたことが現実となって来たのだ。脱走迄行おうとした自分が帰国乗船なんて、全く夢に似たりである。
茲で自分としてやることは、隠匿した手榴弾の処置である。居室の床下の土中のままでは、此のキャンプの作業で何かの拍子に爆発するかも知れない。夕食後のザワメキの中で小生は用心しながら此の手榴弾の掘返し作業をやったが、はしゃぎ切った同僚達には全然気付かれなかった。包んだ木綿の靴下は、土中の水分を吸収してボロボロになっていたが、それを一つ一つ衝撃を与えない様にキャンプの鉄柵の北側へ深く掘って埋め替えた。
場合に依っては此の手榴弾が脱走の為に炸裂して、己れが生きる 道を開く役目を果して呉れたかも知れない。然し幸いにして此の手榴弾に頼らないでも何んとか此のサバン島からは去ることが出来る様だ。ズッシリとした拳大の手榴弾、本当に世話をかけた。ゴツゴツした亀甲型の凹みのある表面を撫でながら、一つ一つ安全栓をたしかめて舎外の砂中へ葬った。
作業中苦労して持込んだ八個の手榴弾、どうか静かにサバン島で眠って呉れ、本当に世話をかけた。
消燈時刻になっても一向に人のざわめきは終らない。 今は例の小屋の場所でバンカランブランタン残留者全員の会合を行った。 早い頃此の場所で楠本曹長と別れの会をやり、緒方曹長、 近藤軍曹とも茲で別れを惜しみ、福丸通訳官の送別会をした処だ。
今度は残留者全員がサバン島とお別れの会合である。 残念なのは久井准尉の顔を見ることが出来ないことである。
特に今宵は、小生の脱走せずしてこの幸運に遭遇し得たのは隊員諸氏のおかげであることを深謝し、且つ楠本曹長の提唱した毎年三 月三日の会合を再び誓い合った。
きき慣れた印度洋の波が岩礁を打つ音も囚人として行動を制限さ れた鉄柵から、今宵限りさらばである。
人間の悲嘆や苦悩のどん底から一変して歓喜と希望の絶頂に到達したものがあるとしたならば、正に今の心境であろうか。でも小生は此の歓びに浸りつつも尚心の一隅に或る警戒心を失ってはいけないと自重した。即ち戦犯追求の手は手段方法を替えて来るかも知れないと。そして戦犯として残る七十五人の運命の、一日も早く開かれんことを祈った。
三月三十日
午后一時日本へとサバン港にて乗船終了、出港す。
さらばサバン島
声からし只入々の入り乱れ
整理はつかず時はたてども
行 軍
銃剣に囲まれながら行軍す
サバンの町を軍服を着て
乗船
重き荷を軽々と背にのせながら
歩き慣れたる桟橋を渡る
船室
荷に似たる人の群れかなうす暗き
船倉の隅場所を定めて
出港
動きゆく落葉松並木見てあれば
九ヶ月の我苦役を想ふ
キャンプの影微かなり
岬めぐるその草かげに屋根見えて
言ひ知れぬ我胸掻きむしる
沖へ出る
鳥影のうすれ遠のく波の上に
恨みも今は泡と消えゆく
船に夢を
エンジンの音を腹底に受けながら
いつか汗して眠りに落つる
さらばサバン島
夢に夢、夢にまぼろし重ねつつ
サバンの島をわれら離るる
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