教育の市場化の記事を日本語教育機関に置き換えて考えてみると

大阪市などで話題になっている「教育の市場化」についての記事を読んだので、少し思ったことなどを書いてみようと思います。

この記事ではアメリカの公教育についての話だったのですが、自分の現場(国内の日本語教育機関、いわゆる「日本語学校」)に置き換えて考えてみました。

①「学力」について

記事には以下のような事が書かれています。

・何を持って「学力」と呼ぶのかはほとんど議論されていない。
・国語と算数のペーパーテストの点数だけが「学力」とされていいのか。
・私達が真に問うべきはこの貧弱な「学力」観そのものではないか。

これを自分の現場に置き換えて考えてみると、現在の日本語学校では「JLPT合格」が至上の目標のように語られることが多いです。
確かに進学や就職などで必要とされている要件にJLPTが挙げられていることは多く、また、学習者の側も自分の能力を測るものさしとしてJLPTに依存している部分は大きいのかと思います。
ただ、試験勉強であればインターネット上で、個人でできてしまいます。
村上先生のご著書にもあるように、日本に一度も行ったことがなく、学校に通わなくてもN1で満点を取った方もいます。

そのような状況の中で日本語学校はどのような能力を身につけることを目指すのか、またそれはどのようなものさしによって測られ、それは経済性や妥当性の観点から言っても実現可能なものなのか、ということが議論されなければならないと思います。
「JLPT至上主義」も、その対極として語られる「試験なんてどうでもいいんだよ。コミュニケーション力があれば大丈夫」も、表出の仕方は違っても、きちんと身につけるべき能力を明示していない点で同根のように感じます。もちろんその際には「コミュニケーション能力」とは何か、また、「コミュニケーション能力を身に付けることが至上の目的になってもいいのか」という問いについて考えることは不可欠ではあると思います。

数日前に「国が日本語教育機関の質を審査する」という話がありました。そこで多くの現場の日本語教師は「JLPTの合格率だけで学校の質を測られてはたまらない」と思ったと思いますし、私もそう思いました。でも、じゃあ何をもって評価してほしいの?という問いには私達はきちんと答えられていない、あるいは現段階では答えられない場合が多いのではないかと思います。それはある意味「逃げ」と捉えられる可能性があるかもしれないということです。外部の人から見れば、なぜ試験の合格率を指標にしないのか、日本語教育機関で日本語能力以外の評価基準なんてあるのか、という意見が生まれることも予想できます。

きちんとした評価から日本語教育機関が逃げていると思われないためにも、質をどのように評価するのか、その枠組が、目指すべき能力とともに提示される必要があると思いますし、私達も発信する必要があるのではないかと感じます。

但し、そこで規定されたものが「スタンダード」になっては教育の画一化を進めることになると思うので、多様な実践や教育方法を担保するような評価の枠組みでなければいけないのではないかと思います。そのためにも現場で実践に携わる方が声を上げることが必要ではないかと感じます。
個人的にはこの日本語学校の評価には、教務主任が文化庁等の所轄機関に行って、自分たちの学校の教育内容をプレゼンしたり、質疑応答をしたりする、というのがいいなと思っています。あるいは研究授業を行って、そこに文化庁なりの職員が見に来るとか。プレッシャーにはなりますが、こちらも伝えたいことを伝えられるチャンスがあると思います。

②「勝ち組教育」と「負け組教育」について

記事内にはアメリカでの教育の市場化に伴う変化として、以下のような事が書かれています。

教育的ニーズの高い貧困地域になればなるほど、テスト対策重視でAIと非常勤講師を駆使した格安の「負け組教育」、もともと点数の取れる裕福な地域になればなるほど、高い指導力を持つ熟練した教師による批判的思考を養う全人教育など、グローバルエリートを育てるための勝ち組教育が行われていったのだ。

そもそも「勝ち」「負け」などというのは当事者しか分からないものですし、社会的に「負け」だと思われていても人生を楽しんでいる人は大勢いると思いますが、一旦それは脇に置いて話をしようと思います。

私は日本語学校の現場では、初期は教育に投資を惜しまない日本語学校の方にAIが導入されるのではないかと思います。知識の面ではAIには絶対に勝てないので、より高度に専門化した教師とAIのタッグで、質の良い教育が行われるかと予想しています。
例えば、ある文法に対しての説明をAIがそれぞれの学習者の母語で分かりやすく行い、またコーパスから瞬時に適切な例文や覚えるべきコロケーションの項目などを提示する、よく使われている場面を提示し、その時の学習者に合わせたモデルのやり取りが瞬時に提示される、などの方法が可能になるのではないかと思います。教師は学習活動全体の舵取りをしたり、グループでの協働作業の調整をしたり、あるいはAIの知識を与えないで考えさせる場面を作ったりなどの技術が必要になるのではないかと思っています。

それに対して、教育に投資しない日本語学校には、「AIを使いこなせない教師」が集まり、従来の、あるいは古い教育が再生産されていくのかと思います。

現在でもプレゼンテーションソフトなどの簡単なICTについても、使えない、あるいは使わないという日本語教師がまだいる中で、AIを使いこなせるかどうかによって更に教師間の力量が開いていくのではないかと。そしてそのような能力がない、あるいは身につけようとしない教師は、「教育に投資しない学校≒教育の質を重視しない学校」でしか働けなくなるのではないかと思います。


さらに時が進み、高性能なAIがコモディティ化する時代になると、学校そのものの役割を変えないと、日本語学校自体が生き残れないのかというような気もします。
一つの空想としては、日本語学校の教師は学習のアドバイザーに徹して、実際の学習はAIが中心に行う、という学校全体が「学習のリソースセンター」のような形態になるのではないかと思っています。妄想ですが。

③教師という仕事について

・教員が学力標準テストと結果責任の枠組みの中で結果を出そうとすればするほど教員は専門性を失って「使い捨て労働者」と化した。
・ベテラン教師はインターネットで「私が教師の職を去るのではなく、教師というしごとが私を去って行ったということです。それはもう存在しないのです」と発信した。

これについてはあまり同意できない。
なぜなら、どの職業にも永久不変の不代替性があるわけではなく、時代の変化や技術の進歩に対応し、その中で新しい役割を見つけていく必要があるからです。
赤の女王仮説」ではないけれど、不断の研鑽と、二者択一ではない第三の道を探さなければならないと思う。学力テストが重視される状況であれば、自分の理想の教育をしながらも、学力テストの成績を上げる方法を探さなければならないし、実際に苦悩しながらも、そのようなことをやっている現場の先生は世界中にいることは簡単に想像できます。
そのような実践での試みや葛藤、妥協やすり合わせの中で人間の教師にしかできない事が分かってくるだろうし、それはまさに人間の「能力」とは何か、ということにもつながってくるのではないだろうかと思う。それこそを「学力」として伸ばすべきである。なので、課題と目標が一致している、ある意味ラッキーな状況のように私は捉えています。

④「問い」にこだわるとは

塾が「正解」にこだわるのなら、学校は「問い」にこだわれば良い。

「問い」を使った学びと聞いて、やはりCLILのことを考えました。内容についての学習を行いながら、比重の半分は語学学習におく。その中で、「問い」について考えながら、本物の言語使用を通じて日本語能力を高めていく。そのような環境を整え、必要があれば介入をし、あるいは見守り、学習者主体の教室を作っていくことが重要なのではないかと思いました。
そこでは言語の学習が本質ではなくなり、ホリスティックな学びが主になる。その中で言語の習得が「後からついてくる」ような形態がいいのではないかと思っています。

「ホリスティック」という言葉を使ってしまいましたが、ここで少し懸念しているのは「日本の常識や思考様式などを道徳的な感じで扱う」日本語の授業になることです。およそ全人的な教育の類は常にこの「道徳」への教化の危険性をはらんでいるように感じています。これを回避するために教師はある種の「後ろめたさ」を感じながら教育活動を行うことが必要ではないかと常に思っています。

かと言って、道具的なことを目標にすると虚しさも感じるので、人の心というのは本当に図々しいものだな、自分を通じて実感します。

それはさておき、CLIL的なことをJLPTの合格率もキープしながら行うというのは、それなりに困難な道だと思います。ただ、少しでもそのような理想に近づけていくことが大切で、圧倒的な現実や目先の効率性(効果ではなく)に流されないことが必要なのかと思います。


この記事の前には以下のような記事もアップされています。

この中で、

「どんな複雑な問題にも決まって短く、単純で、間違った答えがある」

という一説があります。
教育に関する問題は複雑なので、拙速に答えを出すなということなのでしょう。

しかし、それでは「いまここにいるひとたち」はどうすればいいのか、未来まで待ってね、というのか。

ここはやはり「最高ではないが、その時々における最善を少しずつ積み重ねること」が必要のように感じます。

なので私は、

「どんな複雑な問題にも決まって短く、単純で、間違った答えがあるのは分かっているけど、何もしないよりはその時における最善について試行錯誤しなければならない」

と思っています。

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