「あたりまえ」は、なぜ「あたりまえ」なのか(人にもらったテーマへの返信)
哲学系のOCを開いたら、驚いたことに人が入ってきた。
「あたりまえ」は、なぜ「あたりまえ」なのか
哲学的関心を聞いたら『「あたりまえ」は、なぜ「あたりまえ」なのか』に関心があるとのことだった。
具体例
以下のような具体例を出してくれた(語調は変えている)。
昔の「あたりまえ」は、今の「あたりまえ」ではない。
なるほど、たしかに。
あたりまえの定義
さらに、「あたりまえ」を以下のように定義されていた。
なんだか、同じ語で定義しているし、前後の「あたりまえ」の指していることが違うような感じがした。
そこで、一歩踏み込んで、あたりまえとは何かを聞いてみた。
すると、以下のように定義してくれた。
「多くの人々が受け入れていること」というのは、結構的を射ているかもなと思った。
あたりまえなどないと切り捨てる態度への疑問
以前、あたりまえだと思われていたことが、今日あたりまえとは思われていない。ゆえにあたりまえは存在しない。という主張と理解したが、それだとあたりまえだと思われていたことについて考察する機会を逃してしまうのではないかと思った。
「あたりまえ」のことなどないというのも理解できるが、「あたりまえ」という共通理解が可能にしている複数のヒト間の協働という部分もまた多いと思っているので、そこを取りこぼしてしまうのはもったいないと思った。
なので、あえて少し突っ込みを入れた。
諸事情でOCで返答を受け取れなくなったそうだ。消化不良だし、なんかの偶然で見てくれることもあるかもしれないので、ここに返答を残しておく。
あたりまえを主体の観点で2つに分類
「あたりまえ」について、あたりまえと思っている主体という点でも以下2つに分類することが出来るかなと思いました。
複数の人々(共同体)の間における共通理解(価値観)
バスに乗るときはお金がかかるのが当たり前
個人の信念としてのあたりまえ
寝たら、明日が来るのが当たり前
災害などで日常が崩壊したときに、自分が持っていたことに気付くところのあたりまえ(の日常)
もちろん共同体と個人は、部分的に重なる所もあるとは思います。
ただ、ここで言いたいのは以下のような分類ができるのではということです。
人と人の間で、「特定の事象に対し同じ結果を期待する」考えを共有しているときに使われるあたりまえ
個人において、特定の事象に対し昨日もこう(いう結果)だった、一昨日もこうだった、去年も5年前もずっとこうだった、だから今回もあたりまえにこうだろう、というような個人の経験において帰納法的に身に付いたあたりまえ
時間的制限と共同体に帰属する制限
あたりまえについては、以下のような制限が課せられているように思います。
「時間的制限」
例:遠くの知り合いに連絡を取るとき(歴史的な正確性は措く)
「江戸時代においては」飛脚に頼むのが当たり前
「昭和時代においては」電話するのが当たり前
「その理解を共有している共同体に帰属する制限」
家に入るとき
「日本においては」靴を脱ぐのが当たり前
「ドイツにおいては」靴を脱がないのが当たり前
以上の分析も踏まえつつ、共有いただいた以下のあたりまえの定義について分解していきたいと思います。
①のあたりまえは、「人間が学んできた知識、経験を多くの人々が受け入れていること」かと思います。
先述した時間的、共同体的制限下においては、あたりまえと認識されていることがらがあるというのが私の立場です。
以下の文において否定されているあたりまえは、時間的制限を受けないところのあたりまえなのではないでしょうか。
それを踏まえて、書き換えると以下のようになるのかなと思いました。
「永遠に多くの人々が受け入れるところのあたりまえがない」
②のあたりまえは、この主張されているIさんが事実として考えていることではないでしょうか?
それは、①で言っているところのあたりまえとは違う事柄を指す言葉として使われているのではないでしょうか。
おわり