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学びの場における非対称性 ― 内田樹のエロス論に対する構造的批判
私が大人になって以降、正確には三十で結婚した後に、もっとも大きな影響を受けたのは内田樹だと思う。彼の言うことを一言でまとめるなら「大人になれ」というメッセージだと私は解釈している。そして著作を読むかぎり、内田自身にはどこか子どもっぽい雰囲気があるのも魅力だ。さらに言えば、私は彼の顔が好きなのだ。かっこいいと思うし、鬱屈した感じがなく、楽しそうに見えるのもいい。
そういうわけで、今回取り上げるテキストも、おそらく二十年前に読んだはずだが、正直いまは内容を覚えていない。知人との議論の中で話題に上ったので改めて読み直してみたところ、「いいこと言うなぁ」と思う反面、二十年の月日で私にも多少なりとも知恵がついたのか、「ちょっとおかしくね?」と感じる部分も出てきた。
前にも触れたが、私の趣味は「議論」です。というわけで早速ChatGPTと議論してみたのだが、今回はかつてないほど苦戦した。何度も「このコンテンツは利用規定に違反している可能性があります」と言われて停止され、挙げ句には「あなたが『エロス』という言葉を性愛中心で理解している限りは…」とまで言われる始末。もはや暴言じゃね?まあ、最後には何とか納得させるところまで持っていったけれど、いつになく神経を使う議論だった。
珍しく議論に疲れてしまったので、o1 Proに書かせることにした。というわけで、一応念のため言っておく。「ChatGPTの回答は必ずしも正しいとは限りません。重要な情報があれば必ず確認するようにしてください。」いやまあ、オレが書いたって正しいとは限らないんだけども。
序文
以下の文章は、内田樹氏が提示する「学びの場は本質的にエロティックな欲望の構造をもつ」という主張に対し、純粋に哲学的な観点から批判的立場を示すことを目的とする。制度的・運用的な混乱や言葉遣いの是非といった論点は意図的に排し、構造論としての問題点に絞って論じる
エロスにおける「相互賦活構造」と学びの場の非対称性
内田樹氏は、ヘーゲル=コジェーヴの「他者の欲望を欲望する構造」やプラトン的な「欠如を埋める渇望」を参照し、教師と学生のあいだでも相互に“欲望が点火される”エロス的な循環があると論じる。しかし、哲学的に見れば以下のような齟齬がある。
ヘーゲル的欲望論の相互性
「人間の欲望は他者の欲望を欲望する」というテーゼは、もともとヘーゲル『精神現象学』の「承認闘争」をコジェーヴが読み解いたフレーズである。ここでの欲望は対等な主体どうしが互いを承認し合う闘争の図式を前提にする。つまり、形式的には相互的・対称的な承認関係が想定される。学びの場の非対称性
しかし、教師と学生の関係は、知識・経験・責任などにおいて根本的に非対称である。教師が「すでに修めたもの」を学生が「まだ欠いている」からこそ成り立つ関係であり、対等な承認闘争の場とは性格を異にする。
たとえば、学生は教師に対して「模倣(ミメーシス)的に知を学びとる」ことが望ましいが、だからといって教師が学生からの承認を欲すること(承認欲求)までも肯定できるわけではない。ここにヘーゲル的モデルを安易に持ち込むと、上下非対称の教育関係が“相互承認の闘争”へずれてしまうという問題が生じる。
したがって、ヘーゲル的な「承認欲求の相互交錯」を教師—学生間の本質に見出そうとするのは、互いの地平を共有する同格の主体関係を、そのまま上下非対称の教育関係に当てはめる飛躍にほかならない。構造論的には、教師と学生のあいだにある非対称性こそが教育行為の根幹であり、“相互賦活”は補助的要素にすぎない。
欲望の「循環性」と教育の「外部性」のずれ
内田氏は、性愛における「相互に相手の官能を賦活し合う循環」を手がかりに、学びの場にも「相互に欲望を喚起し合う欲望の循環」があると述べる。だが、本来の教育構造は“相互賦活”よりも、一方的に知を外部から取り入れ、学生が自己形成を行う過程を中心に据えるのが通説的理解である。
ウロボロス的循環の問題
性愛の比喩で言う「循環的な官能」は、二者間の完結性を強調しやすい。ところが、教育は学生が「未知なる対象」へ向かい続ける運動が本質であり、教師—学生のあいだだけで閉じるものではない。学問的真理や客観的データなど、「外部にある知」をめぐる営みが核心である。知への志向は第三者的対象に向かう
教育において根源的に志向されるのは「教師と学生の外部にある知そのもの」。学びは二者間の欲望交換よりも外部への射程を軸とするため、二者間のエロス的サイクルを強調しすぎると、教育固有の「外部性」や「学問的対象へ開く運動」が見えにくくなる。
「欲望の欲望」のモデル化が陥る誤謬
内田氏は「学生が教師の欲望するものを欲望する」「教師もまた学生の欲望から学びを得る」といった相互刺激を“エロス”と捉え、セクハラやアカハラを「エロスの取り違え」として解釈する。しかし、以下の哲学的疑問が浮かぶ。
本来の志向対象は「知」や「学問領域」であり、相互承認ではない
ヘーゲル的「他者の欲望を欲望する」は、承認をめぐる闘争という文脈が強い。一方、教育における目的は知の習得・探究であり、教師が主体的な“承認の対象”になる必要は薄い。学生は教師を通じて知を獲得するのであって、教師の承認を満たすために学ぶわけではない。「相互刺激」は教育における副次的現象にすぎない
教師が学生の視点に触発されて新たな研究領域を開く場合はあるが、それは教師が客観的対象(研究分野)に向ける探究心の変容であって、二者間のエロス的相互刺激と単純に同一視できない。「欲望の欲望」モデルを教育行為の基盤とみなすと、教育の本質的機能を“欲望の相互交換”に還元してしまう危険がある。
師の先行責任と「欲望のパス」に潜む曖昧さ
内田氏は、師が先んじて「他者(あるいは師の師)」への欲望を抱き、それを弟子へ“パス”することで教育は成立すると説く。これは一見、教育の非対称性を認めた理論のようにも読める。しかし、その一方で、ヘーゲル的「相互欲望」や「相互承認」を引き合いに出すため、どこまで上下非対称の責任構造を貫こうとしているのかが曖昧になる。
先行責任を徹底するなら
レヴィナス的な「私はあなたに先行的に有責である」という倫理観に近づくが、これは相互承認モデルとは相容れない。上下非対称の負債関係が強調されるからである。相互欲望を強調するなら
教師と学生のあいだにある根本的格差が薄れ、まるで同格の主体どうしが互いを刺激し合う構造が前面に立つ。それは教育の現実(教師の先行性・学生の欠如)と整合しない。
したがって、内田氏の「欲望のパス」は、欲望の相互循環と非対称性をどのように兼ね合わせるのかを明確にしないかぎり、教育に特有の力学を十分に説明する理論にはなりえない。
エロス論では捉えきれない「学び」の本質
プラトン的エロスが有効なのは、「愛する主体がさらに高次の美や真理へ向かって上昇する」という観念論的モチーフである。そこでは二者のあいだのやり取りよりも「イデアそのもの」への飛躍が中心課題となる。レヴィナスの欲望論も「他者に対する非対称的責任」を強調し、相互的な性愛関係とは異質の枠組みを提示する。
プラトン『饗宴』におけるエロスと現代大学教育
『饗宴』のエロスは、師と弟子のあいだに性的ニュアンスが介在する場面を描きながらも、最終的にはイデア(真理)への到達が目標となる。二者が相互に欲望を高め合う閉じた循環とは異なる文脈であり、現代の大学教育を包括的に説明するモデルとしては無理がある。レヴィナス的欲望論と師弟の非対称性
レヴィナスは「私はあなたに先行して責任を負う」という不均衡な関係を基礎づける。これを教師—学生の構図に当てはめるなら、教師が学生への責任を先んじて引き受けるという非対称関係が表に出るが、そこにエロスの相互循環を持ち込む理由は乏しい。
以上のように、内田氏が参照する哲学的典拠は、「相互にエロスを喚起し合う」よりも「外部への飛躍」や「非対称的な倫理関係」を強調しており、学びの場をエロス論で包括的に捉える根拠としては弱い。
欲望の方向性――ヘーゲルとラカンの違い
ここで問題となるのは、「承認欲求としてのヘーゲル的欲望」と、「ミメーシス(模倣)を含むラカン的欲望」は本来大きく異なるという点である。内田氏は「欲望の欲望」をヘーゲル由来の承認闘争として語るが、それは教師—学生の上下非対称性をやや無視してしまう可能性が高い。
ヘーゲル(コジェーヴ): 自由な主体同士が互いの承認を奪い合う構図(主人—奴隷)。
ラカン: 欲望は常に「他者(象徴界)の欲望」を介して構成される。弟子が師の欲望(知)を模倣することはあり得ても、師が弟子からの承認を求めるのは倒錯的になりかねない。
もし「教師が自らの師(たとえばレヴィナス)へ欲望を向け、学生はそれを模倣しつつ知を学ぶ」という関係を想定するなら、ラカン的なミメーシスモデルのほうが自然であって、対等な承認闘争を基礎とするヘーゲルを持ち出すのは飛躍と言わざるをえない。
結論
内田樹氏は、「学びの場には本来エロティックな構造があり、セクハラやアカハラはその構造の誤読から生じる」と主張する。しかし、厳密な哲学的観点から見れば、以下の理由で問題がある。
教育関係の非対称性
ヘーゲル=コジェーヴ的な相互承認モデルは、対等な主体どうしの闘争を前提とする。しかし実際の教師—学生関係は上下の非対称性が不可欠であり、教師が学生から承認を欲する図式を肯定するのは言語道断に近い。外部への志向性
性愛的エロスが二者間で完結するのに対し、教育は「外部にある知や真理」をめぐる営みであり、常に対象へ向かうベクトルをもつ。エロスの「相互循環」は学問の本質にそぐわない。「欲望の欲望」モデルの限界
教師—学生間が相互に欲望を駆動し合うというよりも、教師が指し示す対象(知)を学生が模倣・習得するという一方向性に近い。そこに過度な相互承認理論(ヘーゲル)を導入すれば、本質的な教育機能を見誤る。プラトン的エロスやレヴィナス的欲望論の真正な文脈
『饗宴』もレヴィナスも、最終的には外部(イデア、倫理的他者)へ向かうプロセスや非対称性を強調するものであり、“相互にエロスを循環させる閉じた図式”を肯定する根拠にはなりにくい。
さらに、内田氏はテキスト終盤で「官能の関係とは異質だ」とエクスキューズを加えているが、これはあくまで「性愛との混同」を避けるための留保にすぎず、上記で指摘した“非対称性”“外部志向性”“承認欲求の不適切さ”といった齟齬を解消するには至らない。たとえば、ラカン的な「他者の欲望」を引用すればより整合的に説明可能な点を、ヘーゲル式の相互承認を持ち出すことでかえって混乱を招いているように見える。
結局、内田氏のテクストは「欲望」や「エロス」の概念を拡張的に用いることで学びと性愛の類縁を強調するが、教育に固有の非対称性や外部性を捉えるうえで不備が残る。学びの場を「官能的な関係」とは異なるとする留保があっても、肝心の「学びをエロス論で包括的に説明できるか」という構造的問いには十分に応えられていない。言い換えれば、知の授受が本来志向するのはあくまで「外部の対象(真理)」であり、教師と学生が相互に承認を求め合うヘーゲル的エロス図式を教育の本質とみなすのは根本的に難しいというのが妥当な結論となる。
(加筆修正)2025年2月7日:ヘーゲルを調べていてラカンも知ったので、そこで学んだことを踏まえ、大幅に加筆修正しました。ただ、内容の方向性には変化ありません。