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【小説】 西海道中膝栗毛<其ノニ>


 蟬の声が、朝からにぎやかである。
 障子越しに差し込む光で眼を覚ましたこぞうは、昨日の外国船のことを思い出し、自分は長嵜にいるのだということをようやく思い出した。
 昨夜はさすがに疲れていたため、玄沢が軽い酒宴を開こうというのも断って寝床についた。どうやら朝まで熟睡したらしい。

 どこからともなく朝餉の香りがする。こぞうは布団をたたんで部屋の隅に片付けると、襖を開けて土間へ出た。奥の厨房では栄之進の妻が朝餉の支度をしている。
「やあ、これは美味そうな朝餉ですな」
 こぞうが思わず鼻をひくつかせると、栄之進の妻は笑って、
「すぐに準備できますけん、座って待っておかれんですか」
 と、言う。
 こぞうは、ちゃぶ台の脇に座って小さな中庭を見ながら、本府にいるお花のことを思った。




 木本栄之進は、頭を抱えていた。
 阿蘭陀船の積荷のことである。毎年、季節風を利用して真夏に来航し、滞在許可期間が終了する秋口に帰航するのだが、年々積み荷が増えている。奉行所法度にしたがい、阿蘭陀人の脇荷物*はイの蔵へ、東印度会社の本方もとかた荷物*はロの蔵へ、それぞれ見分のうえ保管して封をする。その他の個人の手廻り品は、やはり見分のうえハの蔵へ保管される。
 入島に荷揚げされる全ての積荷は、本船から積み出す際に検分された差し紙と積荷の個数を検使立ち合いのもと、入島の水門でもう一度照合する。禁制品が含まれている場合はただちに没収され、出航の際まで長㟢会所の蔵に封をして保管をする。

 万が一、禁制の品が水門での検査をすり抜け、入島へ持ち込まれたとしても、この扇形の築島から持ち出す際は、江度えど町へつながる橋の検問所で持出し検査を受けねばならぬため、無断で長嵜の市内に持ち込むことはできない。
 とはいえ、最近手廻り品や脇荷物の数が増え続けているのが気になって仕方がない。手廻り品の大半は、葡萄酒や珈琲、麦酒のような嗜好品、にしんの樽漬けなどの保存食類、高価なところでは菓子や珈琲に入れる砂糖などであったが、これ以外にも、阿蘭陀煙管キセルや毛皮、琥珀や金銀細工の装飾品といった手土産品もかなりあった。これらの手土産品の多くは、入島にいる間に身の回りの世話まで焼く角山かくやま遊郭*の遊女や入島へ出入りする役人たちへ贈られた。

 その昔、この入島には南蛮の葡萄牙ポルトガル人が住んでいたのだが、外交における政策上の相違から本府より来航を禁じられ、入島から締め出されることになった。そして、葡萄牙と入れ替わるように制海権を握り始めた阿蘭陀が、当時比良戸にあった商館を閉め、長嵜の入島に移ってきたのである。
 ときの商館長カピタンはカロンといい、木本栄之進も共に働いたことがある。今は長㟢で小通詞を務める若き秀才、桂川浦周かつらがわほしゅうも、わずかばかり比良戸で一緒だった。その時代に知り合った真平賀まひらが源内げんないは本府へ帰ってしまったが、浦周は栄之進とともに長嵜に移り住んだ。

 さて、こういう次第で此度の貿易目録の翻訳をしながら、その積荷の増加に頭を抱えていた木本栄之進の悩みというのは、役人たちと阿蘭陀人との間で交わされる袖の下のことであった。

 異国から持ち込まれる高価な舶来品は、通詞を含む役人たちの役得として関税が免除されるため、これを転売して懐を増やす手合いが横行していた。しかも、この件には長嵜奉行も絡んでいるという噂まである。表向きはもちろん内密であるが、それを知った本府の役人でひそかに長嵜奉行の職を狙う者は多かった。

 とはいえ、収賄の取締りは阿蘭陀通詞の所轄ではない。通詞の役目は、江度町にある長嵜会所に提出する積荷目録の日本語版の作成や、阿蘭陀人の通訳、年に一度の江度参府への随行などが主な仕事である。
 栄之進は一つ深いため息をつくと、通詞部屋で黙々と翻訳に励む桂川浦周を見ながら、若き自分の姿を重ね合わせていた。



 一方、朝餉を済ませたこぞうは、大月玄沢に連れ立ってシーワットの住まいへ出かけた。大柄で、目鼻立ちのくっきりしたシーワットは、まるで天狗のようであり、こぞうは少しばかり怯んでしまった。ところが、玄沢の通訳で話を交わすうち、シーワットの動植物への造詣の深さにいつしかそんなことも忘れて、すっかり話に夢中になってしまった。

 午過ぎにシーワット宅を出ると、玄沢が長嵜の町を案内してくれた。唐人町ではふんだんに並べられた支那の料理を楽しみ、南蛮町では砂糖を贅沢に使った菓子に舌鼓を打った。ことにカスティリャという南蛮菓子は、えも言えぬほど美味しく、こぞうは砂糖の製造に成功した暁には、このカスティリャを本府でも作りたいものだと呑気に考えていた。
 そうして、菓子に添えられた真っ黒な飲み物を見て、
「これは何ですか?」
 と尋ねた。玄沢は、
「珈琲という西洋の飲み物だそうだ。私はあまり好んで飲まないが、試しに飲んでみるといい」
 そう言われて、こぞうは恐る恐る一口啜ってみる。
「やや、なんと、これは苦い!」
 顔をしかめて舌を出すこぞうを見て、玄沢は大いに笑い、
「砂糖を少し入れて飲むといい」
 と言って、盆の上に置かれた小さな砂糖壺から、砂糖をひと匙すくって椀に入れた。こぞうは玄沢が薦めるので、渋々ながらもう一口含んだ。
 そして、やはり渋面をつくる。その様子を玄沢は面白そうに眺めていた。

 こうしてシーワットと面識を得たこぞうは、長月に阿蘭陀船が出帆するまでの間、積荷目録の作成を終えた桂川浦周の通訳のもと、甘蔗の栽培方法や砂糖の製造方法について学んだのであった。


 さて、こちらは佐々矢木小次郎の恋の話である。
 万次郎に昼餉を届けながら、店の手伝いをし、近所の紅毛人*の身の回りの世話を手際よくこなすチヨの姿は、実に愛らしく、清々しかった。その様子に日ごと惹かれていく小次郎であったが、剣の道に女子おなごは要らぬと己に言い聞かせながら、今日も稽古に励んでいた。

「小次郎さん、今日も暑かね」
 手拭いで額を拭いながら、チヨが声をかける。
「ああ。お父上は変わりないか?」
「小次郎さんのおかげで万次郎さんがしっかり蔵の番ばしてくれますけん、うちんとこの品は問題なかですよ。それに、杉浦すぎら党は貧乏人からは盗まんと聞いちょります」
 そう言って笑うチヨの顔に、夏の日差しがはね返る。
 小次郎は、昼餉を届けて去っていくチヨの姿をいつまでも見送った。

 そんなある日、小次郎の元へ幾久きく正宗まさむねがやって来た。
 暦は長月にかわっていた。蟬の声もひぐらしに代わり、暑かった夏もようやく終わりを告げようとしていた。
 稽古を終えて、道場の脇にある小さな庵で刀を研いでいた小次郎は、顔を上げて正宗を見る。
 見ればその顔は悲しみに暮れ、足元は今にも崩れ落ちそうである。
「正宗どの、どうなさったのだ? どこかご気分でも?」
 心配して尋ねる小次郎に、正宗はしばらく目を伏せていたが、やがてぽつりと話しはじめた。



 初秋の闇に隠れて、男が一人、停泊する船の甲板へ上がり、やがて船の中へ消えた。
「おかしら、どうも妙な具合ですぜ」
 お頭と呼ばれた男は、身の丈六尺はあろうかという大男で、日に焼けた顔から飛び出しそうなほど大きな目が、影のように立っている男を見る。
「どうした、平次」
「少し前のことでやすが、井王いおう島の先を和寇の船が通り過ぎたんでさ。ところが、その船にゃ、あの出鱈目でたらめ謂三ゆうぞうが乗ってやがったんです」
「なんだと? もしやお前の見間違いではないのか?」
「いいや、お頭、奴は頰被りこそしちゃいましたが、あの頬の傷は間違いなく謂三に違えねぇ」
「しかし、謂三は比良戸の杉浦四方末よもすえの家臣ではないか。それがなぜ和寇の船に乗っているのだ?」
「さあ、そいつは俺にもわからねぇ。でもな、お頭、この件は間違いなく臭いますぜ」
 頭領は、腕を組んだまま机の上に広げた地図を眺めた。
「お前の言うことに間違いがないとすると、どうやら近頃の和寇襲撃の裏には何かカラクリがありそうだな」
「どうもそのようで」
 平次は、頭領からの指示を待っている。
「よし、わかった。もう少し動きを調べてこい」
「へい、わかりやした」
 平次は、物音を立てずに船を去ると、秋の闇に消えた。



 長月廿日はつか、阿蘭陀船の出帆の日である。
 こぞうは、この阿蘭陀船に同乗して苔湾たいわんまで行くことになっていた。通訳としてこぞうに伴うのは、賢木さかき蔵之介という若い稽古通詞である。
こぞうは、興奮のあまり昨夜はほとんど眠れず、何度も寝床を起き出しては夜空を見上げ、明朝の天気を確かめたのだった。

 木本栄之進とその妻が、心配そうにやって来た。
「どうか、道中ご無事で」
 栄之進の妻はこぞうに包みを差し出して、
「こぞうさん、カスティリャば持っていかんね。あまり日持ちはせんばってん、随分と気に入っとらしたけん、福沙屋ふくさや*の焼きたてばうてきたとよ」
 と言うと、こぞうは非常に喜んで、何度も何度も頭を下げた。

 手廻り品の検分が済むと、いよいよ小船に乗るために大波戸のはしけへ向かった。
 小次郎が見送りにやってきた。
「気をつけるのだぞ。お前はすぐに夢中になるから、向こうで珍しい植物でも見つけようものなら帰ってくるのを忘れそうだな」
「小次郎さん、よしてくださいよ。今回の船旅は、甘蔗の苗を持ち帰るのが私の役目なのですから。それに……もし、内地で砂糖の製造ができるようになれば、お花ちゃんの茶屋でもカスティリャを出してもらえるかもしれないな」
 こぞうは、嬉しそうである。

「こぞうは本当にお花のことが好きなのだな」
 小次郎が言うと、こぞうは顔を赤くして、
「そういう小次郎さんだっておチヨさんのことが好きなのでしょう」
 と、すかさずやり返した。
 小次郎はこぞうに鋭い視線を投げたが、その瞳の奥には寂しげな影が映っている。
「おチヨは……。おチヨは、先日角山かくやま遊郭へ売られたのだ」
 そう言って、静かに顔をそむけた。


 こぞうを乗せた阿蘭陀船は、しだいに遠ざかって小さくなり、やがて海の端で空に溶けた。




<作者註>
*地名:実在の地名とは関係ございません。
*人名:実在の人物とは関係ございません。
*脇荷物:阿蘭陀人が個人で売買する目的の商品。
*本方荷物:阿蘭陀東印度会社の商品。
*角山遊郭:丸山遊郭とは関係ございません。
*紅毛人:阿蘭陀人のこと。
*長嵜弁:本文中の会話は長崎弁とは関係ございません。北部九州の言葉を混ぜ合わせた作者の造語。
*福沙屋:福砂屋さんとは関係ございません。
*本作品はフィクションであり、史実とは関係ございません。


<其ノ三>へ続く


* * *


◆西海道中膝栗毛シリーズ(前回までのお話)

<其ノ一>


〜こぞうと将軍シリーズ〜


◆こぞうと将軍

◆こぞうと将軍<其ノ二>

◆こぞうと将軍<其ノ三>



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