なぜ、コーヒーキュレーターとして、コーヒーキュレーションをし、コーヒーキュレーションサービスを立ち上げるのか。
お前誰だって話書いてます。↑
4月いっぱいで名古屋の老舗(スペシャルティ)コーヒーロースターを離れて、
東京に還り、コーヒーキュレーターを名乗り、コーヒーキュレーションを生業として、コーヒーキュレーションサービス「mamedana(マメダナ)」を立ち上げます。
なぜバリスタを名乗らず、コーヒーキュレーターなのか
2つの記事に書いてることは触れるかもしれませんが、
掘り下げないかもしれません。よかったら一読いただけると嬉しいです。
この記事は↑を掘り下げていこうと思います。
アーティストとキュレーターという表現者の違い
ボクは表現者のベクトルとしてキュレーターを選ぶ
前項の記載により、
アーティストは
ゼロやゼロに近い状態から、創造・創作において表現物をつくる、もしくは表現する人。
キュレーターは
情報を選んで集めて整理すること。あるいは収集した情報を特定のテーマに沿って編集し、そこに新たな意味や価値を付与する作業を行う人、イチをジュウにもヒャクにもしうる意味や価値を付加付する人
とボクは定義付け捉えてみた。
面白いのはキュレーターが先でその人が行うことがキュレーションであるということ。
アートとアーティストの関係はニワトリが先か、タマゴが先か、という感じであろう。
仕事において、ゼロからイチをつくっていく仕事をしたことも、
イチを二やサン、ジュウににする仕事もしてきた。
コーヒーを表現のツールと捉えたときに
ボクは”コーヒーとお客さん(飲む人)との間に自分を介在させない抽出、不必要な自己表現をしないこと”をモットーに、流儀としている。
そう捉えたときに、アーティスト的表現ではなく、キュレーター的役割が自分の目的であると考えた。
ボクの自身のバリスタ像は、
競馬におけるジョッキー、アートにおけるキュレーターなのだ。
キュレーター、キュレーションとの出遭い
前出のtwitterにも書いていることなのであるが、
2019年に名古屋市と豊田市で行われた
『あいちトリエンナーレ2019』が大きく起因している。
名古屋に住んでいることもあって、足繁く通った。
アートや芸術作品、パフォーミングアーツ、映像作品それぞれに感銘を受けたのはもちろん、「キュレーター」の仕事に感服したのだ。
自分の分野・領域においてキューレーターのような仕事、キュレーターになりたいという想いが芽生えたのもその時である。
"情の時代" Tarming Y/Our Passion をテーマに
芸術監督に 津田大介 氏を据え、あいちトリエンナーレ2019
2019/8/1-10/14の会期にて愛知県名古屋市と豊田市の複数の会場・エリアで開催された。(コンセプト)
あいちトリエンナーレ2019は多くの人のイメージにおいて、
「表現の不自由展(・その後)」、「(芸術監督)津田大介」のイメージが鮮烈であると思われる。
音楽プログラムにおいてサカナクションのパフォーマンス 『暗闇 -KURAYAMI-』 が行われていたことは少ないであろう。
『暗闇 -KURAYAMI-』は体験できていないし、残念ながら『表現の不自由展・その後』も体験できていない。
あいちトリエンナーレ2019に関しては改めて書けたらと思う。
そんなあいちトリエンナーレでの表現の裏方にあたるキュレーターやキュレーションにボクは感情を揺さぶられたのだ。
だから、コーヒーキュレーターとして、コーヒーキュレーションをし、コーヒーキュレーションサービスを立ち上げる
ボクのコーヒーワーカー(あえてバリスタではなく)としての流儀と
あいちトリエンナーレ2019との出遭いの後押しによって
コーヒーキュレーターを名乗り、ゼロからコーヒーキュレーターという仕事を構築し、コーヒーキュレーションを仕事とし、コーヒーキュレーションサービスを立ち上げ、コーヒーと人、コーヒーロースターと人を繋ぐことをしていく。
その先にこの国におけるサスティナブルなコーヒーワークを実現するために。
コーヒーキュレーションサービス「mamedana(マメダナ)」のこと、進捗。
サスティナブルなコーヒーワークのこと、進捗は追って
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