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folie à deuxをdeuxした。

割引あり

folie à deuxをdeuxした。

folie à deuxをdeuxしました。

上記のとおり、”「JOKER」は2度観て”、folie à deuxをdeuxしました。

正確には、”folie à deuxをdeuxした。後に、3度目の「JOKER」を
自分がオススメする、folie à deuxからの「JOKER」

虚実皮膜から「虚の中の虚」

「JOKER」で描かれていたのは、「虚実皮膜」及び「芸」「芸事」のお話。

”悲劇を生きていると思っていたら、実は喜劇だった。”

「人生は悲劇だと思っていた、だが今 分かった、僕の人生は喜劇だ」
「コメディアン」が「Fuckin' Comedy」と発する。

アーサー・フレックが「主役」として描かれ、”一代ヴィラン”「JOKER」の誕生が描かれている。

階段だけでなく、アーサーは冒頭を含め走っている描写が多い反面、

ジョーカーはゆうゆうと歩む。

「JOKER」を2度観て。

アーサーは「Joker: Folie à Deux」は走っていない。「全く」とは言わない。

「That's Life」

それが人生。
「Joker: Folie à Deux」は誰の「物語」なのか、

『Life is contents』
現代社会はソーシャルメディア、ソーシャルネットワークで「70億人総『Life is contents』時代」である。

現代社会と画した、「前時代」として描かれている、
「JOKER」と「Joker: Folie à Deux」

「JOKER」は明らかに、アーサーの「物語」であり、アーサーの『Life is contents』を描いている。
『JOKER』誕生を描いていても、『JOKER』を描いた物語では無いのだ。

「Joker: Folie à Deux」は”誰の『Life is contents』”を描いているのか、
『JOKER』?『Harleen "Lee" Quinzel(リー)』?『Harley Quinn』の誕生?改めて『Arthur Fleck』?

僕なりの答えがあるが、あえて記さない。
前回の記事でも書いたが、「各々、個々」に感じたり、思ったら良い。

ボクは「誕生していない」し「誕生していなかった」と思った。と言うことだけ記しておく。

「虚の中の虚」

「JOKER」では『Arthur Fleck』の「That's Life」を描いている。
『虚実皮膜』、一人の「コメディアン」と言う、エンターテイナー(JOKER)を描いている。

「Joker: Folie à Deux」では、昇華して(?)、あえて昇華と言う、表現にしておこう。
エンターテイナーではなく、エンターテインメントとして描かれている。

アーサー・フレックは「独り」では歌わないのだ。

「folie à deux」であるから、歌う。歌っている、はたまた「歌わされている」のか、
「個人」ではなく、「現象」に”昇華”、”昇華”されてしまったエンターテイナーはエンターテインメントとなる。

エンターテインメントとなった時に「消化」されてしまったのだ。

DanceとSing

アーサー「独り」では踊る。
「Joker: Folie à Deux」では、歌い、そして歌い踊るのだ。「ミュージカル」のように
「エンターテイナー」としてではなく「エンターテインメント」となってしまったのだ。

『表現』は尊い。

「踊る」だけなのか、歌も「流れる」のか、「歌う」のかで違うし、「歌い踊る」のかでも違う。

個人的に気になっている「表現」は他にもある。

「タバコ」、「乗り物」、「ピストル」

「ピストル」

「ピストル」はアーサーにとって「悲劇」の”カギ”であり、「喜劇」の”カギ”でもある。
そして、「恋におちる」表現として扱われている。

「JOKER」ではソフィーが頭を射抜き、
「Joker: Folie à Deux」ではリーが頭を射抜く
上記に関してはまず”指、手”での「ピストル」

リーとアーサーは「ピストル」を手にする。
その話はここではしない。

アーサーは二人に「頭を射抜く」表現をされ、返す。
でも、それは「虚」であったのか、「実」であったのかは『定か』でない。でも「定かでなくて良いのだ」

「タバコ」

タバコがよく出てくる。
現代では愛煙家は生きづらいだろう。
そうか、アーサーはもっと生きづらくなってしまうね。

そう言うお話では無い。
しかし、愛煙家が生きづらい現代社会であるからこそ、「前時代」である中でタバコの表現が生きるのかもしれない。
吸う仕草、煙の微睡。

でも、ボクが言いたいのは、
『タバコの”灰”』のお話。

「JOKER」では2度落ちる。
しかし、落ちない描写が多く、しかも「灰」が長く、『よく落ちないな』と考えてしまう。

そうこの”考えてしまう”が個人的には『ミソ』だと思っている。
理由は言わない。

「Joker: Folie à Deux」では一度も落ちない。
※落ちる描写があったら、上記は無視してください。
(「JOKER」の2度も含めて、改めて確認できたら、訂正します。)

「乗り物」

「乗り物」での描写、
端的に言うと、「自動車」なのか「電車(地下鉄)」なのか

「JOKER」は地下鉄でウェインカンパニーの”エリート”証券マンを3人「私刑執行」。
ひとりは駅だよ!はなしでお願い致します。

アーサーは「バス」「救急車」「パトカー」「護送車」、「地下鉄」にも乗ってるけれど

個人的には「乗り物」の違いでの表現に感心してしまった。
考察はしないよ。

「JOKER」の表現は”あの”『階段』

「JOKER」も「Joker: Folie à Deux」も”あの”『階段』が描かれ、表現されている。
昇るのか、降りるのか、
そして「誰が」

今年はニューヨーク行ったけれど、
『フィラデルフィアの階段』は駆け上がったけれど、
ブロンクスまでは脚を運ばなかった。
「フィラデルフィア」より近いのに、ミスった。

また、ニューヨークに行く理由があるってことにしておく。

深い意味はありません。

THE END

2度目の「Joker: Folie à Deux」を観て、勝手にオススメした「JOKER」を観る流れを取ってみた。
「Joker: Folie à Deux」では、『THE END』って出て来てない気がした。(気付いた気がしている。)

出てたら、上記は全面撤回、訂正いたします。

色々書こうと思っていたけれど、
上手くまとまっていない気がするし、
書き忘れがある気がする。

書き忘れや、書きたいことが増えたら、
追記するか、記事改めて書くよ。

めいびー。

この話はこんなところで

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