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地震はシンプルに萎える

昨夜、22時47分ごろに地震が来た。

この日はなんだか気分が優れず、こういう時は大体サウナに行けば一発なのだが、大雨強風もあって外に出ることができなかった。というわけで今宵はもう何もしないことに決めていた。自宅の風呂で済ませ、前から気になっていた映画を観はじめるが、とてもイライラする内容だった。むしろ気分が悪化するなか映画を観続けていたら、緊急アラームと同時に地震がやってきた。

思えば、フランスから帰ってきて以降初の地震だった。2023年の5月にあった能登の地震ぶりだろうか。あの時は金沢の図書館にいたが、相当揺れたのを覚えている。1回目はなんだか気持ち悪い揺れ方をして、そのままイライラする映画を観ながら情報収集していたら、1時間後に余震が来た。たまたまこの日阪神淡路大震災に関する記事も読んでいたのもあって普通に怖かったし、映画はつまらないし、雨も風も強いしで不気味な日だった。夜寝てる間に本震来たらシャレにならないと思いながら一応できることは準備して、祈るようにして眠った。夜中一度余震で揺れたような気がするが、なんとか何もなくて今朝これを書いている。

とにかくこの1週間は油断できない。今週金曜から4日ほど関東に行く予定があるが、金沢のアトリエは古い家なので、地震の影響は普通に心配である。家もろとも潰れてしまのうではないかとか、昔は考えなかったような最悪パターンも考えてしまってる自分がいて、歳を取ったな〜とか思ってしまった。そして、シンプルに地震って萎える。忘れていたころに突然やってきて、積み上げたものを簡単にぶち壊してくれる。個展を終え(腰痛やったこともあって)、アトリエの環境を新しく整えているところで起こったので、いまやっていることは何も意味がないんじゃないかと思わせてくれる。

地震が収まって、コレクションしてる他の作家さんの作品が倒れているのを見た時、やはり日本において「保存」や「永遠」なんて概念は幻想でしかなくて、むしろ東京で行われるような「作っては壊す」再開発的思考が正しいのではないかと思えてしまう。無常。もののあはれ。ポジティブに言えば地球は生きているということ。積み上げるだと来世に残すだとか、人間の傲慢さを平らにしてくれる。色々萎えさせてくれる地震、この災害の多さは、日本人の宗教、芸術、人生観に大きな影響を与えている。

「日本で作家活動をする」ということは必然的に地震と向き合い続けることになる。例えば、展示期間中に地震が起こるとどうなるんだろう。インストールの強度も考えなければいけない。地震があまり起こらないヨーロッパで活動するってどういうことなのだろう。まあ、自分の身の安全を確保したところで、「日本人」であることは一生消えてなくならないので、遠い日本を心配することになるのだろう。本当に地震は萎える。しかもほぼ確定で南海トラフが来ることが約束されているのだから、これから、ただ何も考えずに生きることは難しい。

何かネガティブな文章のように感じるが、心境としては実は何も消極的でなく、淡々と書いている。シンプルに「書く」という行為に救われている、という面もあるが。僕は月に4本noteを書くことを自分に課していて、このマガジンも6年以上運営している。なんなら来年でブログを書き始めて丸10年になる。飽き性で大体のことが続かない自分が、なぜこういうことは続いているのか。継続できている理由を考えたり、継続できているものを愛した方がいい。続かないことを続けようと頑張ろうとするのは全く向いてない。書くという行為は、自分に合っている自負があり、救いであり、作家をやっていく上での武器でもある。

書くことはひとりになるというとことであり、考えるということでもある。そして書くことは歩くことでもある。

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どうしたらもっと本質的にこの世界を味わえるのか。 圧力やダルいことに従わずも反発もせずすり抜けられる…

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