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エッセイ【紅茶なのにブラックティー】

紅茶のことを日本語では「赤いお茶」と書くけれども、英語では「ブラックティー」と、黒いお茶と表す。

これを知ったのは確か、大嫌いな英語の授業だった。私は表し方の違いに酷い興味と趣を感じて、その時間を終えていました。他に何を習ったのかは、覚えていません。ただただ、紅茶をブラックと表すことを面白いとだけ思っていました。

そんな、趣にだけ動かされていた高校生だった私。

逆に英語圏の方がブラックティーを赤と表すことに何を感じるのかを、聞いてみたいです。


私は紅茶が大好きです。存在そのものが、優しいからです。冷めてしまっても、冷たくして飲んでも美味しい。

誰かの安らぎのそばにいるような存在に、感じるのです。

安らぎの象徴的なイコン。

紅茶は急ぎながら、ばたばたしながら飲むイメージがあるものでもないし、他の飲み物にはない優しさを感じずにはいられません。

冷めてしまっても趣があるあたりには、不思議な羨ましさを感じる時もあります。

人間だったら、冷たいひとのそばにいる時間なんて苦痛でしかないのに。

紅茶は冷たくても、温かい。


などと、紅茶の優しさについて考えていたのですが、私にとって紅茶は必ずしも安らぎの象徴ではありませんでした。


私が小説を書くエネルギーは、原稿を作る力は、とても長い間、その主成分は『憎しみと鬱屈』でした。


私にとって書くことは、自分を救うことでした。

私にとって紙の上に物語を綴ることは、憎悪を焼き尽くして処理する行為でした。

一ヶ月に原稿用紙500枚分の長編を書く。そんな暮らしを、2年間続けました。

これは全く、高尚な作業ではありませんでした。

感情は、蓋をしたら蟠るだけ。私は何かを睨みながら、小説を書いていました。

憎悪の処理でしかないアウトプット。

仕事をしたくても仕事がなくて、身体は苦しく心は擦り切れていた。

仕事を断られると、一週間くらい引きずって泣いていました。

誰も、私のことなんて、要らないんだ。

そんなふうに泣いている私には、時間だけがありました。


当時の制作は、私の中の戦争でした。内戦でした。

憎しみのカロリーの凄まじさは、何もかもが消え去った今でこそ恐ろしいものだったと思い返します。何故なら今の私には500枚の長編を毎月なんて書けないからです。

やっと懐かしく思えるようになった戦争のような制作をしていた頃に、そばにあったのが紅茶でした。

ろくに味わいもせず、狂気じみた制作の渇きを潤すものとして、傍らに置いていました。


書き疲れた時に、私は紅茶の暗い水面を見つめていました。

美味しいのに曖昧で、寂しくて、覗き込むには手頃な虚無の色をしていました。

赤ではなくて、黒。

悲しい解釈で、納得していたのを覚えています。


冷めてしまっても優しい存在。どう在ろうと優しい存在。

だから私は戦争の日々に、紅茶を置いていたのかもしれません。


放っておくと、すぐに殺伐と生きようとする。

厳しくいないと誰からも愛されないと思いがちな私の近くにあった温もり。

紅茶は、私の戦友だったのかなと、今では思うことが増えました。


紅茶。ブラックティー。

いつか、そんな題名で何か書いてみたいなと思ってから、約十年ほど過ぎました。

私は今、ネットプリントで『BLACK TEA』という題名で、魔術師の寂しさと虚無の話を書いている。

やはり私にとって、紅茶は温かなだけの存在ではなくて、その黒さを覗き込むのに手軽な深淵にしていた時間があったから、寂しさの象徴としての切り口で、寂しい話を書くときのために、かつて感じた趣を、心の引き出しからそっと取り出したのだと思うのでした。

《※現在、ネットプリントはお休みにしております》

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