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掌編小説【紅茶依存症】

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水の都を舞台に悲しみのある場所へ現れる銀髪の怪傑・魔術師の物語。掌編集。 X(旧Twitter掲載作)のまとめになります。
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記事一覧

紅茶依存症『楡の木陰』

紅茶依存症『楡の木陰』

 身体の内側で此岸と彼岸とを彷徨っていた悪魔は、首を吊るべき楡(にれ)の木を見つけていた。草臥れた魂を見つけることは、悪魔の目には容易いことだった。脳に傷がある。先天的なものならば自閉症と呼ばれるそれだが、何らかの悪意から受ける傷は脳に傷と萎縮をもたらせる。人間の身体と精神にあらゆる不具合と貧しさと不幸を呼び寄せる傷――勉強に疲れていた学生は、遠いところに意識が行ってしまっていたことに気づいて、は

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紅茶依存症『転職と詐欺師』

紅茶依存症『転職と詐欺師』

 上手くいかない日々が横たわり続けていた。
 雨が降る港で魔術師はぼんやりと佇んでいた。自分の他に、誰の影もない虚ろな港だった。今は海が姿を隠している時刻で、乾いて冷たい砂浜が、砂漠のように何処までも、潟(ラグーナ)だった場所に広漠として続いている。
 港の扉は開け放たれていた。街の方へ、風が流れていた。潮の匂いに混ざって、かなしみの青い色をした冷たい匂いが魔術師の嗅覚の霊性に触れていた。
 魔術

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紅茶依存症『人生という名の仕事』

紅茶依存症『人生という名の仕事』

 仕事終わりに、安い酒を飲んでいた。仕事に心と身体を削りながら、重ね続けた夜だった。家では酒を、一滴も飲まない。だけれど、外に出ると浴びるように酒を飲んでしまうのはどうしてなのだろう。弱いからなのだろうか。何かから、逃げようとしている気がする。その何かが、何なのかは、分からない――
 仕事のことを、話す誰かがほしかった。でも、そんな相手はいない。どうしてだろう。こんなに仕事が好きなのに。微発泡酒の

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紅茶依存症『淡くする魔術』

紅茶依存症『淡くする魔術』

 酒が並ぶ棚の前で辺りを哨戒する人影があった。酒を買いに来た客が現れると棚を離れ、誰もいなくなると戻り、瓶を見ていた。小柄なその人はマントに体も顔も隠し、誰かの視線に触れられることを怖がっているかのような佇まいだった。居心地の悪さと良心とを天秤にかけて、酒瓶を一本、素早く掴み取る。マントの中に瓶をしまう。
 しかし小柄なその人の動きは、何かを欺くには正直が過ぎていた。瓶を隠した姿は、嘘をつくには愛

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紅茶依存症『止まない雨』

紅茶依存症『止まない雨』

「どうして、生き続けなければならないのか――苦しみながら、生きねばならないのか」

 雨が降っていた。いつから降り出したのかを、どうしてか思い出せない雨だった。よく晴れた空を、見た記憶を探していた。広い砂浜で、無くしてしまった一粒の砂を探すような試みだった。見つけることを諦めながら光を探し続けないと、気休めがなかったのだ。だが、縋ることにも疲れていた。光の存在を、無いものだと決めつけることができな

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