全部込みでどうだろう
最近「ゼロサム」という言葉が気になって調べてみた。「ゼロサム思考」というものがあって、それは白黒はっきりつけるとか、0か100かの思考のようだ。『あぁ〜…』と思った。極端な思考か。ここ数年ずっと引っかかっていることだ。
私はずっと「ゼロサム思考」と「優柔不断」のシーソーだった。「大胆不敵な私」と「ナイーブで不安に苛まれる私」のせめぎ合いが続く日々だった。しんどいくせにそんな自分も割と好きでぐだぐだ生きていた。
数年前にきっとそんな私が災いした部分もあるのだろう。職場でいろいろあって強制的に生き方を考え直す機会を与えられた。そしていろいろもがいているうちに、「中庸」という言葉に出会った。最初のイメージは良くなかった。「石橋を叩き割る」か「何も考えず正面突破する」か「悩みに悩んだ挙句背を向ける」で生きていた私はその「中庸」という言葉はまるでなじみがなく、ぬるくてつまらないものに感じられた。けれど、少しずつ『これからはここを目指すのが良いのでは?』と思い始めて何年か経った。しかし、それでもまだゼロサム優柔不断の染みついた私の抵抗が思いの外強かった。なんとなく潔くないようにも思えるのだ。
私は優柔不断ではあるが、偏った人間だ。偏重している。自由を至高のものとし、束縛を憎む。精神的なものには向かっていくけれど、体験するものからは逃げている。尊敬するものや認めたものにはのめり込むけれど、少しでもダメだと思ったものは大嫌いになって二度と関わりを持たないようにする。…書いていてひどいな、と思う。人間的な思いやりに欠けている。とはいえ、困っている人に親切にすることもあるので、頼りにされることもある。それがしばらく続くと関係性が生まれる。そのことに耐えられなくなり結局傷つけて終了することもある。
距離感をつかむのが苦手なのだろう。そこでもゼロサム優柔不断が炸裂している。これまでの人生を振り返ると直視できないような出来事がたくさんある。なかったことにしたいようなこともある。でもやってしまったことはもう仕方ない。それで、これからだ。
「陰陽」や「光と影」についても考える機会が多くなり、「中庸」ベースに少しずつ近づいてきているのだけれど、まだ私の中の何かがゴーサインを出さずにいたのだが、体の調子が悪くなることが多くなってきた。そうなってくると、精神性のみを重んじていた私も、身体の重要性を考えざるを得なくなってきた。
ひとつの物事には陰と陽がある。光が射せば影ができる。そんなことは手を替え品を替え、さまざまな作品などで目にしてきたのに、全く私の中に落ちてきていなかった。私という概念は、私の肉体という存在がなくなればこの世界からはなくなる。それならば、尊重するものや、相反することだけに限らず、さまざまなものを内包する存在でいいのかも…と思えるようになってきた。それはだんだんと小さい字が見えにくくなってきたり、白髪が増えてきたり、という変化が多くなってきたことも関係しているのかもしれない。なんにしても、いい面もあれば、かんべんしてくれよという面もあるのだ。これまでは力技、もしくは、逃避で見ないようにしてきただけだ。
そうなると、受け入れる潔さとして「中庸」へ向かうのが良いと思えてきた。私の中に、たとえば「0」と「100」の要素が一緒に入っているのでいいじゃないか。当たり障りのない「50」にならなきゃいけないという意味じゃない。「0」しかだめなのでもなく「100」しか認めないのではなく、「0」も「100」も私。そして、悩み続ける優柔不断なところも私。そう、私は潔癖だったのだろう。こんなにぐうたらなのに。癖はいらない。潔さはいいけど、潔癖はもういい。
最近引いたおみくじの最後に「置かれた場所で…」という文字があったので、『え…』と思いつつ読み進めると「置かれた場所であなたらしく咲き誇りなさい」だった。そう、ただ咲くのではなく、私らしく咲き誇るのならOKだ。ワクワクする。そして「中庸」という言葉にも「真ん中ら辺で当たり障りない」というイメージではなく、「ゼロサム優柔不断全部込みで私の概念も存在も全部込みで中庸ならどうだ」と思い始めている。
だいぶ乱暴な考え方しかまだできない。本来、物事の良し悪し、好き嫌いという意味合いのものではないのだろう。最終的には「全部込みの状態を俯瞰し客観的に冷静に判断できる」ようになりたい。けれど、ひとまず「気に入らないところがあってもよし」とするところから始めてみる。認めることができなくても、存在を否定しない。そんなところから、始めてみる。