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夢とうつつ、紡ぐことば。
みずいろが、うっすらと頭上にひろがっているから、
きっとあれは空なのだろう。
そう思いながらなんだか白っぽい道を歩いていると、
ふと誰かに呼ばれたような気がした。
ふりかえってみたけれど人影はなくて、
いぶかしがりながら右手に目を向けると、
空だと思っていたみずいろが真横にある。
ぼんやりと眺めていると、
みずいろの画布の上に虹が浮き出てきた。
次第に鮮やかさを増していくのに、
虹は透きとおっていて、
その上に何かことばが刻まれている。
刻まれていることばの意味が知りたくて、
目を凝らすけれど、
文字を読みとることができない。
意味を知りたいと、手を伸ばし、
虹にふれようとしたその刹那に。
そこで夢は途切れてしまい、結局、刻まれていたことばの意味を知ることは叶いませんでした。
怖い夢ではなかったのですが、目覚めたときは物哀しい気持ちになっていて、それでいて夢の中ではとても幸福であったような感覚があり、起き上がってからしばらくのあいだその心地を味わっていたのです。
大人になってからは少なくなりましたが、子どもの頃は毎晩のように夢を見ていました。
夢はモノクロという人もいるようですが、わたしの場合は現実よりも色彩が豊かで、目覚めた後もその内容が記憶に残っていることがあります。
眠る前に文章を書くと、印象に残る夢を見やすい。
最近、そんなことに気がつきました。
夜の、静かな時間が好きです。こころの奥深くに沈んでいることばをひろいあつめ、並べていくのは、夜のほうが落ち着いてできるように感じられます。
ですが、ひととおり書いてしまい、はじめからおわりまで読んでみても、しっくりこないときがある。
どこにもほころびはないけれど、重心が定まらず、揺れ動いてるような。
あるいは、遠目から見ると完成しているのに、近づいて見るとひとつだけピースが欠けている、ジグソーパズルの絵柄のよう。
そんなときは、無理をして手直しはしない。
潔ぎよくあきらめて、文章とともに自分も眠りにつきます。
翌朝、台所に立って、お味噌汁を拵えていると、ひとつのことばがふわりと頭の中に舞い降ります。
"そう、このことばを探していたのだよね"
昨晩にはどんなに見渡しても見つからなかったピースが、朝の光の中で手のひらを広げてみれば、その上に
佇んでいる。
そんなことを経験するときは、たいてい何かしらの夢を見ているものです。
高校生の頃、数学の問題集を解いているときに、ある因数分解でつまずき、考え疲れて眠ってしまったことがあります。
その時には夢を見なかったと思うのですが、目覚めるとあれほど考えても解けなかったのがまるで嘘のように、すんなりと解を導くことが出来ました。
"眠っているあいだも、考えていたのかな"
そう感じたことが深く印象に残っていて、文章の核心となることばを見出す朝には、決まってこの時のことを思い出します。
そして、書くことが楽しいのは、こんな瞬間に出会えるからだと、こうして書き進められていく文章を目の当たりにしながら考えました。
書いている自分と、その文章を読んでいる自分が同時に存在していて、その両者が完全に等号で結ばれないところにも、面白さを感じます。
光ったり、ゆらめいたりすることばの温度や、手にふれるときの質感。
浮かんでくる色と、ことばが抱える意味の重さを撚り合わせて糸を紡ぎ、織りなしていく一枚の布。
文章を書くときに展開される思考は、自分自身も未知の回路を通るものだと、この頃実感するようになりました。
実は、今日の午前中には全く別の文章を書こうと考えていたのですが、不意に先月見た夢のことを思い出し、その夢の情景を描いていると、ことばがさらさらと流れ出てきたのです。
夢は不思議なものだけれど、それ以上に不思議なのは、自分のこころの中なのかもしれない。
そんなふうに感じた出来事なのでした。
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