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大切なものと共に、つなぐ日々。
コーヒーが入ったカップを手のひらで包みこみ、指先を温めながら今日の予定を考えていると、ふいに涙ぐみそうになって、驚きました。
数日前から、今日はお家でゆっくりと、身の回りの物の整理をしようと思っていたので、その段取りについて考えていました。
散らかっている状態が苦手なので、ふだんからこまめに片付けをしてはいるのですが、日々の暮らしの中で、物はどうしても増えていきます。
ほつれや色褪せがある洋服、保管する必要の無くなった書類など、整理するのを後回しにしてしまっている物。
その時は必要だと思って撮ったけれど、今は見返すことのなくなったフォルダの中の画像データ。
整理したい物について考えていると、今年出会った素敵なものや、大切にしているものも自然と頭の中に浮かんできました。
そして気がついたのです。
以前の自分に比べて、今のわたしには大切にしたいものがなんて多いのだろう、と。
そのことに気がついたとき、うれしさがこみあげてきて、涙まで溢れてしまいそうになりました。
わたしは、持ち物が少ないほうだと思います。
大きな理由としては、引越しの回数が多いことで、荷造りと荷解きの大変さが分かる年齢になった頃から、できるだけ余分な物を増やさないようにしてきました。
もともとは、好きなものを集めることに熱心で、折り紙や色えんぴつ、レターセットやシールなどをたくさん持っていたのですが、十代半ばぐらいの時には、全て手放してしまったのです。
それから、もうひとつの理由は、十代から二十代にかけて、厭世的であったこと。
厭世的、ということばは、わたしには綺麗すぎると思うのですが、生きることに対する執着が薄いとしか表現しようのない時期がありました。
学校や仕事からの帰り道、"このままふいに自分という存在がかき消えてもかまわない"、そう思いながら歩いていたときのことを、忘れることはないでしょう。
そんなふうにして日々を過ごしていたので、たとえば自分自身が楽しい気持ちになるようなものを買ったり、お気に入りのものを飾ったり、ということもいつしか出来なくなってしまいました。
誰もが心に傷を負っていて、悲しみや辛さを抱えながら歩いていることに考えが及ばず、自分だけが苦しいと思っていたその当時の自分の至らなさに、今でも苦い気持ちを感じます。
本だけは、幼い頃から変わらずにずっと好きで、たくさん持っていましたが、それすらもかなりの数を減らしました。
けれども、引越しにかこつけて、過去の自分を今の自分から切り離す為に、本当は大切なものも手放していたことにようやく気がついたのです。
過去の記憶を振り返ったあと、今のわたしの書きもの机の上を眺めました。
積み重ねられた読みかけの本。少しずつ買い集めているSARASAやMILDLINERなどのカラーペン。水玉と花柄模様のマスキングテープ。卓上カレンダー。シールファイルの中にはいろとりどりのシールたち。クリアファイルに収められた、お気に入りのデザインペーパーとブックカバー。
そして壁に目を転じれば、ちいさなクリスマスリースとそれを囲むようにして飾られたポストカード。
眺めているだけで、幸せな気持ちになれるもの。
手に取るたびに、心が温かくなるもの。
そうしたものをかたわらに置いて大切にしたいと思えるのは、今日を明日へとつなぎたいという想いがあるからだ、と思います。
"明日なんて来なくて良い"と感じているときは、そんなふうには思えないものだから。
そこまで考えたとき、一首の和歌が心に浮かびました。
夢の世に月日はかなく明け暮れて
または得がたき身をいかにせむ
『秋篠月凊集』より
"夢の世に"ということばに、明日が来るということが、当たり前のことではないと思い知らされます。
"または得がたき身"の一語の重さが、歳をかさねるたびに増していき、心の奥底にゆっくりと沈みこんでいくようにも感じられるのです。
はかないものであるけれど、だからこそ日々をつないでいきたいと思うし、そのために心に響くものや心に寄り添うものを大切にしていきたい。
そう思えるようになって良かったな。
そんなことを考えながら書類の束をまとめていると、紙の手触りが、いつもより優しく感じられるのでした。
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