トウモロコシを肴にバーボンを [短編小説]
「ちょっと近づかないで、すごく臭いわよ」
急に耳慣れた女性の甲高い声がフロアに響いた。驚いて振り向くと、部屋の入口で編集長の真紀子さんが持っていた書類を団扇のように振っている。その傍らには、契約カメラマンの真鍋さんが手を口に当てて立っていた。
「そないに臭いますか?」
「臭うわよ。いったい何時まで飲んでたの?」
編集長は自分まで酒臭くなるとつぶやきながらデスクに向かって歩き始めた。その後ろを身長の高い真鍋さんが黙ってついていく。編集長のせわしない歩き方と真鍋さんのゆったりした歩調のギャップが妙に可笑しくて吹き出しそうになった。
編集長がデスクについてからもふたりの珍妙なやり取りは続く。やはり真鍋さんの関西弁は無敵だ。マシンガンのような編集長の言葉を難なく受け止めていく。決して撃ち抜かれない。
昨夜は今日の取材先である舞台の演出家と飲んだらしい。一升瓶を三本空けたという声が聞こえた。無茶苦茶だと感じながら二人の様子を垣間見ると、領収書を差し出している真鍋さんが見えた。それを編集長が受け取る。真鍋さんは飄々とした調子で、何かを報告している様子だった。思い返してみれば、頭ごなしに怒鳴られる筋合いはないのだ。取材で良い話を聞き出せるように根回しをしてと真鍋さんに頼んだのは編集長だった。
「取材の時間までには何とかしなさいよ」
ひと通り文句を言って編集長も落ち着いたのか、二人のやり取りは終わった。編集長は早速他の原稿に目を通し始めている。真鍋さんはというと、全く気にしていない様子でキョロキョロと周囲を見回していた。視線が合う。とたんに目が三日月の形になった。その下に粒の揃ったトウモロコシのような大きな歯が現れる。この笑顔を向けられると弱い。打ち合わせに遅刻してきたことも許してしまっていた。
真鍋さんは私の隣に椅子を転がしてきながら、「おはよう奈々ちゃん。わい、そないに酒臭いか?」と聞いてくる。改めて鼻をクンクンするまでもない。私は人並み以上に嗅覚が鋭いから、真鍋さんがこの部屋に入ってきた時から臭いに辟易していた。二日酔い独特の甘く腐ったような香りは出来ればこれ以上吸いたくない。
私は息を吸い込まないように無言のままで微笑みながら、バッグの中に常備している口臭用の飲み薬を取り出した。ジェスチャーで真鍋さんに手を出すように要求する。彼の大きな手が目の前に伸びてきた。その手のひらに小さな緑色の粒を幾つか出し、続いてミネラルウォーターのペットボトルからキャップをはずして彼に向けて差し出す。真鍋さんは椅子に腰かけたまま、大きな眼で私を見ながらそれを受け取った。
「飲んで良し」
私の合図で、彼は薬を口に放り込む。それを水で飲み干した後、再び大きな白い歯を見せて笑った。
「奈々ちゃんは犬の調教師みたいやな」
何となく思っていたイメージ通りに伝わったのが可笑しくて、私もクスッと笑った。
真鍋さんはセントバーナードに似ている。第一印象がまさにそれだった。だが同時に、それは私の美的感覚をくすぐった。とても美しいと感じてしまう。それは子どもの頃から犬を飼っていたせいなのか、理由はよくわからない。ただ犬に似た人と接すると飼い主のような気分になってしまうようだ。あまり良い事ではない気もするが、とりあえず真鍋さんなら許される気がした。
考えてみると、取材や撮影中も真鍋さんには声に発するよりジェスチャーで意思を伝えることが多い。待てとか行けとか、それこそまさに調教師のように指示を出した。はじめは抵抗されることもあったが、今では嬉々として従ってくれる。きっと築きあげられた信頼関係の賜物だろう。
真鍋さんは私の書く原稿をいつも褒めてくれる。もちろんダメ出しもあるけれど、編集長に言われるより的確だと感じた。編集長の真紀子さんは優秀過ぎて時々言っている意味が分からないことがある。それに比べると、真鍋さんの言葉は分かりやすい。関西弁だからかユーモアを感じるし、いつも抵抗なく頭に入ってきた。
私は真鍋さんの撮る写真が好きだ。特に人物を撮るのが上手い。男も女もとにかく美しいのだ。止まっている姿なのに、写真を見つめていると呼吸が聞こえる気がした。被写体となる人物の全てが写真の中に凝縮されている。会社の専属カメラマンであるから当然ではあるのだが、真鍋さんの写真を見てからは他のカメラマンと仕事をする気にならなかった。
私の仕事は編集者だ。職場は神保町にある。メジャーな出版社ではない。有名な大手出版社のビルの間を抜けたところにあるとても小さなビルの一室に間借りした会社だ。それでも根強い演劇ファンから支えられている代表的な月刊誌を出版している。
中学生の時に、はじめて行った新宿の紀伊國屋書店でこの雑誌と巡り会った私は、運命を感じた。知りたくても知り得なかったことを雑誌は教えてくれたのだ。それから大学四年生になるまでの間、真剣に評論家を目指した時期もある。いつも演劇離れが深刻だと言っていたゼミの教授は、まさにこの雑誌に寄稿する評論家の一人だった。
良い作品を見つけだし光を当てる。まだ演劇の面白さを知らない人に、一人でも多く広めたい。けれど、やがて評論家になれるほどの才能があるとは思えなくなり諦めた。それでも、せめて好きなこの雑誌の編集者にはなりたいと願い、ゼミの教授に紹介してもらって無理やりインターンにしてもらったのだ。貧乏所帯の会社としては初めての事だったらしい。
とにかく懸命に働いた。朝は一番早く出社し、トイレの掃除から始める。それは亡くなった祖母に教えてもらった事だ。一ヶ月が過ぎる頃、はじめは冷ややかだった人たちの目が温かくなっていくのがわかった。
それまでも、何でもやるから雇ってほしいと言ってくる演劇ファンは数多くいたらしい。だが実際は、有名な俳優に会いたいといったミーハーな気持ちの人ばかりだったようだ。
お蔭様で、その後私はステップアップして、大学を卒業してから晴れて社員として働いている。新卒採用はバブル崩壊の後はじめてだと編集長の真紀子さんは笑った。
もともとは十年前に亡くなった編集長の父親が立ち上げた出版社だ。私が出会った頃の雑誌は、まだ父親が編集長だった。何度も倒産の危機を乗り越えて、会社の礎を築いてくれたのだと事あるごとに真紀子さんは言う。
今でも活字離れが叫ばれ、編集社の台所が苦しいことには変わりがない。だが、演劇については少しニーズが広がってきた。人気のあるアイドルや実力のある若手俳優が舞台でも活躍し、その情報を求めている。実際、雑誌の部数も緩やかだが右肩上がりになっていた。
特に若い人気俳優をグラビアで紹介すると部数が伸びる。やはり男性アイドルが一番効果があるわけだが、弱小出版社からの依頼は事務所がなかなか受けてくれない。だから日頃から大手の制作会社と関係性を深めておく必要がある。表4と呼ぶ雑誌の裏表紙の広告面をサービスしてでもだ。そうすればプロデューサーが塩梅をつけてくれたりする。
今日は女優の柴崎美玲をインタビューすることになっていた。デビューして間もない女優だが、初主演した映画が大ヒットし、続けてその舞台版の主役にも抜擢された。宮沢賢治の童話を題材にした作品で、彼女は賢治の妹のトシと若き童話作家の二役を演じている。もともとは舞台の子役出身のようで、今後は映画だけでなく舞台でも積極的に活動するらしい。
「めっちゃ綺麗な子やね」
インタビューの打ち合わせが始まり、柴崎美玲の宣伝写真を見た真鍋さんは開口一番にそう言った。
「真鍋さんのタイプなんすか?」
アルバイトの田中君がすかさずそう訊いた。田中君は私のインターン採用で味をしめた編集長が見つけてきた大学生だ。無償の労働力を欲したらしい。だが、さすがに無給では嫌だと言われたのだという。だから時給こそ安いがあくまでもアルバイトだ。それでも、やはりいないよりはいた方が良いと感じるぐらい役には立っていた。
「俺、めちゃめちゃファンなんすよね。いいなぁ、自分も取材に行っちゃダメっすか?」
田中君は今どきの大学生丸出しで話す。顔立ちは整っているが、どことなくチャラくて軽薄に感じる。連れていけるわけないでしょうと一蹴すると、今度は真鍋さんに写真のデータをくださいと言い出した。できればセクシーなショットとか狙ってくださいよとまで言い出す始末だ。
「君さ、そういうのもセクハラだからね。編集長に言いつけるよ」
あんまり煩いから、ちょっと威嚇するつもりでそう言ったら、口を尖がらせてやっと黙った。そんなやり取りを真鍋さんが笑って見ている。
「まあ、元気のない草食系よりはええんちゃう」
「そうですよねぇ。小田倉先輩だって、いつも美しいものが好きだって言ってるじゃないっすか」
真鍋さんの助け舟に力を得た田中君がとたんに元気を取り戻した。
「君の美しいはエロい方に傾きすぎなの」
「何言ってるんすか、究極の女性の美はヌードですよ。ねえ、真鍋さん」
急に話を振られた真鍋さんが、「そりゃあ確かにそやな」と答えると、ここぞとばかりに田中君が食いついた。
「やっぱ、カメラマンはヌードを撮りたくなるもんすか?」
「そりゃそうや。わいも綺麗なヌードを撮りたいと思うわ」
そう言いながら真鍋さんは改めて柴崎美玲の宣伝写真を見ている。いい加減にしろと怒りがこみ上げてきた。
「ちょっと真鍋さんまでそんなこと言わないでくださいよ」
それ以上二人が調子に乗る前にさっさと取材場所へ出かけよう。私はパンパンと手を叩いて田中君を別の仕事に促した。その様子をまた笑いながら真鍋さんが見ている。
「やっぱ、調教師みたいやわ」
一言文句を言ってやろうと思ったが、真鍋さんの笑顔を見たら何も言えなくなった。ヌードを撮りたいという言葉が胸の中によみがえる。急に顔が熱くなった。
「さあ行きますよ」
私は机の横に置いたサイドテーブルからバッグを手に取るとさっさと出入口へ向かう。少し慌てたように機材を入れたキャリーバッグを引きながら、真鍋さんがついてきた。
「取材の前に、なんぞ食べられるかなぁ?」
外に出ると、背後からそんな声が聞こえる。カロリーメイトでも食ってろ、という意地悪な気分になった。聞こえないふりをしてスタスタと早足にする。ガラガラという音が一瞬遠ざかってから、また速度を速めて追いついてくる。何度もそれを繰り返しているうちに、だんだん気分も落ち着いてきた。ふとイライラしていたのがなぜかと考えてしまう。理由は簡単だった。私は真鍋さんに好意を持っている。彼の写真が好きなのも、彼の笑顔に弱いのも、すべてはその一点に集約されていた。
(彼が誰かのヌードを撮影するとしたら、私は嫉妬するだろうか…)
まだ会った事のない柴崎美玲の裸体が頭に浮かんだ。彼女はまだ新人でありながら、初主演の映画のワンシーンで大胆なヌードのシルエットを見せていた。その均整のとれた姿の美しさは、同性でありながらうっとりする程のものだったのだ。
さっきの口ぶりからして、真鍋さんは彼女が主演した映画を見ていないのだろう。まだDVDを手に入れることは出来ない。舞台版の初日が公演記念としての発売日になっている。このタイミングで良かったと安堵している自分に気づいた。そして、そんなことを考えている自分が嫌になった。
「取材って何時からやったっけ?」
駅のホームで並んだ時、真鍋さんがばつの悪そうな顔で訊いてきた。一人の時はしっかりしているくせに、一緒に行動する時は相手任せにする。特に私といる時はひどいものだ。だが、それが何となく心地良かったりもした。
「途中で何か食べましょう。取材は2時からですから」
元気がなさそうだった表情がパッと輝いた。子どもか、と突っ込みを入れそうになるが、やはり私も嬉しい。真鍋さんのトウモロコシみたいな歯が見えた。
◇◇ ◇◇◇ ◇ ◇
取材の場所は表参道の駅から少し歩いた所にあるカフェだった。事前に撮影の許可を取ってある。もう何度か利用していた。店としても宣伝になるからと喜ばれていたから気は楽だ。
インタビューは緊張するのが互いにとって良くない。少し早めに店へ到着できるようにしたのも、コンディションを整えるためだ。
九月だというのに陽射しは容赦なく照りつけている。残暑が厳しい。身軽な私でも背中を汗が流れていた。きっと重いキャリーバックを転がす真鍋さんはたいへんなことになっているだろう。早く冷房の効いた店内で涼みたかった。
ところが店に入ると、柴崎美玲が先に到着していたのだ。マネージャーと一緒にコーヒーを飲んでいる。約束の時間より40分も早い。気楽だったはずが、そのために少し慌ててしまった。早速本人に挨拶して、マネージャーとの名刺交換を済ませる。指示を出さなければと横を見ると、もう真鍋さんは粛々と撮影の準備に入っていた。
いつもは指示待ちのくせにどういう風の吹き回しかと思っていると、自慢のカメラを手に、積極的に挨拶にいった。マネージャーだけでなく柴崎美玲にも直接話しかけている。何かがいつもと違っていた。
取材は無難に終わったと言える。質問内容は事前にメールしていたし、意気込みや役作りの工夫などは、もう何十回も同じような質問をされているだろう。真鍋さんが演出家から仕入れた舞台の情報も、うまく質問に絡められたと思う。それでさえ、主演女優にとっては特別難しい質問ではなかったはずだ。
とにかく頭の良い女性だと感じた。たぶん答え慣れているような質問であっても、はじめて答えているような新鮮味を失わない。それが豊かな表情にも表れていた。そして、その表情を真鍋さんが絶妙なタイミングで撮影していく。インタビューする側とされる側の呼吸に、シャッターを切る者の呼吸が見事に重なっていた。
「とっても話しやすい雰囲気を作ってくださり、ありがとうございました」
取材が終わった時、柴崎美玲がそう言った。あながちリップサービスでもなさそうな口ぶりに、性格の良さを感じる。きっと恵まれた家族の中で育ったのだと勝手に思い込んだ。だがその直後に、それは間違いだと分かる。突然、真鍋さんが彼女に質問をしたのだ。
「お母様は元気でお過ごしですか?」
柴崎美玲が驚いた眼をしている。私も驚いていたが、正直関西弁でない事の方への驚きが大きかったかもしれない。「母をご存知なんですか?」と問う彼女に、真鍋さんはまたトウモロコシのような歯を見せた。
「やっぱり覚えていませんよね」
そう言ってから真鍋さんは、ポケットから一枚のチラシを取り出した。『銀河鉄道の夜』というタイトルが折り目で歪んでいる。そうでなくても古いものだというのが分かるぐらい、そのチラシは傷んでいた。
真鍋さんはクレジットの部分を指さしている。出演者の中に柴崎美玲の名前があった。そのずっと下の方に視線をずらしていく。撮影カメラマンとして真鍋さんがいた。
「あの時、宣材写真を撮ってくださった方なんですね。失礼しました」
「もう七年前ですからね、覚えていなくて当然ですよ」
頭を下げる柴崎美玲を制止するように真鍋さんは慌てながらそう言った。
「母は元気です。兄が亡くなった時にはたいへんお世話になりました」
そう言いながら、柴崎美玲は少し涙ぐんでいた。彼女に亡くなった兄がいることは知っている。ゼミ合宿の時、近くの川で溺れかけていた小学生を救いながら、自分は身代わりのように溺死してしまったという。重い話だから、インタビューで質問することではないと誰もが思うだろう。
「真鍋さんが送ってくださった兄の写真は、今でも仏壇に飾っています」
彼女は名前を聞いただけで分からなかったことを恥じながら、真鍋さんに何度も礼を言った。それどころか、一度ぜひ食事にでもと誘っている。もちろん、母親もマネージャーも同席でということだろうが、それを聞いて私の胸はざわついた。
「もうすぐ兄の命日です。きっと兄が引き合わせてくれたのでしょう」
その一言で、話はとんとん拍子に進んだ。公演が始まるまでは無理だが、始まれば休演日がある。柴崎美玲のマネージャーが指定した日を、真鍋さんがスケジュール帳と付け合わせながら日にちを決めた。まさかこんなことになるとは思っていなかった私は、その様子をただ傍観するばかりだった。
「知り合いだったんですね」
柴崎美玲とマネージャーが帰った後、私は店でメモの整理をしながら、改めて真鍋さんにそう言った。
「知り合いって言うても、彼女が高校生の時やからね」
いつの間にか関西弁に戻っている。話したのは今日が初めてと言ってもいいぐらいだと彼は言った。確かにそうかもしれないが、心の中の繋がりはもっと深いものが出来上がっていると感じる。言葉が関西弁に戻っても、まるで真鍋さんじゃない人と話しているようだった。
「すごく感謝されてましたよね」
また意地悪な気持ちが湧きおこってくる。取材が終わったら、二人で飲みに行くのが定番だった。撮ったばかりの画像データを確認した真鍋さんは一仕事終わった解放感で飲まずにはいられなくなるからだ。いつもはそれこそ犬のようにじゃれついてくるのに、今日は違う。画像データの確認もすごく入念に行っていた。
「彼女と知り合いなのに、ヌードが撮りたいなんて言ったんですか?」
そう真鍋さんに訊きながら、心が煤けていく気がした。真鍋さんが私を見る。そのセントバーナードのような顔には、だがトウモロコシはついていない。意地悪な気持ちと同時に、絶望的な思いが心の中を支配していく。
「頼んだら、内緒で撮らせてくれるかもしれないですよ」
その言葉が口からこぼれた時、少し遅れて涙が頬を流れた。自分でもどうしたのか理解できない。真鍋さんは相変わらずトウモロコシのない顔で見つめている。
もうその場にはいられない。いたたまれない気持ちでバッグを掴み帰ろうとした時、腕を真鍋さんに掴まれた。振りほどこうとしたが、握力が強くて無理だった。
「何ぞ誤解してるようやけど、わいは彼女のヌードを撮りたいわけやない」
目がいつになく真剣だった。何か追い詰められた逃亡犯のように感じた。
「わいは彼女の亡くなった兄さんをよく知っとる。それはもう綺麗な身体をしとった。今も筋肉のひと筋だって忘れてへんがな」
思いもしなかった言葉に愕然とした。真鍋さんの顔が見たこともないほど悲しみと苦しみに歪んでいる。その様子を目の当たりにして、まるで固い氷が解けていくように全てがわかった気がした。
真鍋さんはきっとゲイなのだ。そう思うと、これまで被写体になったモデルと浮いた噂のひとつもないことに急に合点がいった。一緒にいる時間が長いのに、一度も口説かれたことがないのも、そうだとすれば理解できる。単純に女としての魅力がないからだと思っていたが、そういうことでもなかったのだ。
私はじっと真鍋さんの目を見つめ返した。秘密の扉が開こうとしている。私は座ってと彼を促した。柴崎美玲の写真を見つめていた目がそこにある。五時間前まで彼女をフィンダー越しに見つめていた目でもあった。真鍋さんは心が張り裂けるギリギリまで堪えていたのだろう。
私は冷静さを取り戻していた。柴崎美玲のインタビューを原稿にする前に、決して文字には出来ない真鍋さんの思いを聞きたいと願う。それはきっと美しいと思った。
◇ ◇ ◇◇◇ ◇◇
それから数週間が過ぎ、真鍋さんが柴崎美玲と母親と一緒に食事をした夜、はじめて真鍋さんと朝まで飲んだ。男性を自分の部屋に招いたのは初めてだった。お気に入りのバーボンを二人でロックで飲みながら、秘められた過去の真実を共有していく。
取材後にお母さんは元気かと訊かずにいられなかった心境。成り行きで食事の席に着かねばならなくなった時の居心地の悪さ。そして柴崎美玲が、兄がゲイであったことを知っていると気づいた瞬間の驚き。それは、当事者である真鍋さんと彼女の間でしか感じ取れなかったことだと思う。きっとマネージャーも真実を知らないのだろう。もしかすると彼女の母もそうかもしれない。
真鍋さんは、かつて柴崎美玲の兄のヌードを撮影していた。まるでギリシャ神話に登場する神のように、その身体は美しかったという。もちろん、そのデータは彼が亡くなった後に消去していた。今は真鍋さんの記憶の中にしかない。
「俺は彼を好いとった。せやけど彼には恋人がいたんや」
何杯目かのグラスを飲み干した時、真鍋さんはぽそりとそう言った。
「うまくいかないもんだよね。私も片想いばっかり」
そう言いながらグラスをあおると、透明なガラスの向こうに真鍋さんのトウモロコシが見えた。そのまま見つめていたら、だんだん滲んでいく。大袈裟にぷはーと息を吐いて、そのままクッションの上にひっくり返った。
真鍋さんが「大丈夫かい?」と上から覗き込んでくる。その首を両腕でつかみ、思いきり引き寄せた。真鍋さんの身体は一瞬固まったが、気を取り直したように徐々に離れていく。私は負けないように、重力を味方にして必死で抗った。そのうち、彼の腕がプルプルと震えだす。
「やめなって。人間愛で結ばれてればええやろ?」
そう言った瞬間、私ははずみをつけて彼のくちびるを目指して顔を近づけた。あと数ミリという所で届かない。笑いがこみ上げてきた。
秋の夜は長いようでいて案外短い。きっと今のが最後のチャンスだったねと言ったら、真鍋さんも笑った。トウモロコシが真上に見える。
トウモロコシを肴にバーボンを飲んでいるのだと思ったら、ツボに入って笑いが止まらなくなった。自分の笑顔にトウモロコシがついているという自覚がない真鍋さんも、私の笑い声につられて笑い続けている。
そんな真鍋さんを見ながら、私はなぜセントバーナードのような顔の彼を美しいと感じるのかと改めて考えた。きっと、彼が本当の美しさを知っているからなのだろう。
もし真鍋さんが許してくれるなら、一緒に暮らしたいとさえ思っていた。結婚とか、出産とか、世間一般で言われる女の幸せとは違う形の幸せな生き方が彼となら出来る気がする。だが、それを声にするのはやめた。
「ねえ、林檎の匂いがしぃひん?」
ひとしきり笑った後、私は関西弁でそう彼に訊いた。バーボンの強いアルコールで馬鹿になっているかもしれない鼻だけれど、それでも嗅覚は確かだという自信がある。
真鍋さんはクンクンと犬のように空気を吸い込み、「ほんまや」と言った。そして静かに目を閉じると、懐かしそうな口調で「銀河鉄道が来とるんやね」とつぶやいた。
(そうか銀河鉄道の車両は林檎の匂いがするんだ…)
すっかり酔いが回った頭でそう思いながら私も目を閉じる。いつの間にか近くで聞こえていた真鍋さんの呼吸音が遠ざかり、耳の奥に響くゆるやかな振動に変わっていた。
※この物語は、先にアップした『蒼穹のカンパネルラ』の連作短編になっています。『銀河鉄道の夜』で繋がっていく人の縁がどこへ向かっていくのかは、今のところ私自身にも分かりません。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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