「君が心をくれたから(第10話)」花火が上がり、視覚がなくなるまでの1日の物語
もはや、このドラマ、欠かさず見ている人は、この無理クリなファンタジーに対し、心の中でどう思っているかはよくわからないが、リアルな中での決め事みたいなものはどうでもいい中で見続けているのでしょうね。そういう見方をすれば、こんなに出演者の笑顔が素敵なドラマはないし、ある意味、刹那さと感動が欲しい人にとっては、たまらない感じなのかもしれない。
今回は、山田裕貴の花火が「さくら祭り」で打ち上げられることが決まり、その花火を見て、永野芽郁の視覚が失くなって行くという1時間。ある意味、ラストシーンは思った通りではあったが、永野が山田の花火を本当に見ることができたかは不明。この、結果を視聴者に投げるやり方をするのがこのドラマだ。そう、ストーリーとか愛とか恋とかよりも、五感で思いを感じろみたいなね・・。そう考えりゃ、このドラマすごい傑作にも見えてくる。脚本家のホンネみたいなものは知りたいが、多分、しゃべらないだろう。それは、語ったところで、見ていない人に批判されるだけだから・・。面倒臭い、テレビドラマ世界に面倒臭いものを放り込んでるのは、月9スタッフの居直りなのですかね。ある意味、潔さを感じるこのドラマ。
今回の肝は、まずはお母さんの真飛聖に会いに行くところ。白洲迅は、ただ彼女を会いたい人のところに運ぶだけ。そこが格好いいし、彼もいい顔をしている。そして、母親の顔を確認し抱擁する二人。このシークエンスも、イメージビデオのように、なかなか長く音楽と共に見せられる。それはそれで、視聴者としては印象深い。
そして、雨が降り出し、山田裕貴が怪我をするといういらないドラマがあり、白洲はまた花火会場に永野を送るが、渋滞で、途中から永野が走って行くと言って、杖を使って歩いていく。それを途中から、山田の妹の出口夏希がアシストし、今までの彼女のしたことを謝る。こういう流れの中では永野は神か天使ですよね。まあ、山田の奇跡をアシストしたところからそういう役なのだろう。だから、何が起きても、彼女は常に笑っている。こんな笑顔でいてくれる永野が常に隣にいてくれるなら、彼女に五感がなくたって幸せなことである。結局、そういうドラマなのでしょうか?
しかし、花火を打ち上げるために、松本若菜が月の中に溶けて行くことにしたのは、刹那さしかないのだが、その前に山田と親子の会話ができたことは幸せだったのだろう。まあ、この世のものでない人が溶けても、視聴者は悲鳴を上げないし、月を見た時に松本若菜を思い出すなら、すごく良い思い出としてこのことは昇華できることである。
今回も、ただただストーリーの細部などどうでもよく、演者の素敵な顔を見られる中で視聴者がニコニコできた感じの回だった。多分、次回のエンディングも似たような感性のドラマになるのだろうが、最後には、嬉しい奇跡が起きて欲しいですよね。
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