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「フェルマーの料理(第10話)」結果的には、料理を通した友情物語でしかなかったのか?

最終回、最後の風景は高橋文哉が志尊淳と二人でレストランを開いているという画。店の名前は「La Cuisie De Fermat」つまり、フェルマーズキッチンという意味なのだろう。とはいえ、その店の中に数学的なものを感じる部分はあまりなかった。この辺が、前回も書いたが、主題がもう一つ明確に前に出てこない感じがやはり気に食わない私である。しかし、久保田紗友と白石聖が一緒の時間にいてくれるなど、夢のような画ではあったりするが・・。

で、ここでのラストメニューは「ナポリタン」。このドラマ、ここから始まってここに還るという感じは、小難しいドラマではないわけだ。そういう意味で数学と料理の融合みたいなところは、もう最初から複雑な話ではなかったのかもしれないですな・・。

最終回は、志尊が高橋の気持ちに応え、料理人に戻り、師匠である仲村トオルにコース料理で挑戦するという話。そして、高橋は、「K」にいた料理人たちに頭を下げてもう一度手伝ってくれないかと頼みにいくが、皆、自分が忙しいし、無理がある。しかし、勝負の当日、彼らは厨房に集まる。それは板垣李光人が声をかけていった結果だった。やはり、同世代の友人は頼りになるということか?でもね、こういう人を集めるというところで数学が役に立ってこないのはやはり残念。客を集めつという話もそうなのだが、こういうところに数学は役に立つと思う私である。こういう部分を人の心意気的な論理的には表せないもので描くのは、このドラマの趣旨には合わない気がする。

そして、調理人たちが「K」で培った技を全て詰め込んだ料理が作られていく。そういう流れは、志尊が目指した「孤高」の世界とは違うものだと思うが、そこで志尊がまた違う料理人になったということを示すための流れではあろう。これを面白いと思う人と、そうでない人がいるとは思うが・・。

そして、最後に出されたのは、「ハンバーグ」。それは、彼の父の宇梶剛士が作ってくれた記憶を元に、彼が突き詰めた逸品。それを仲村トオルは認めるわけだが、その後に仲村自身のそれを作る。それは、志尊淳が子供の時に感動した味であり、高橋もその味に驚愕するという流れ。それは前回のジビエ料理と同じなのだろう。料理人というのは、歳をとるとともに成長が止まる職業でもないということというか、味覚の追求は底なし沼なのだろう。そういう意味もあって、仲村は二人を認めるわけだ。そして、そこから先があることも教えている。

今回の調理人たちのアイデアの結集は、ある意味、数学的には足し算と掛け算くらいでできる技であろうとは思うが、ある意味、複雑な数式を考えながらできた料理の数式は、実にシンプルだったという回答なのかもしれない。

最後に見せられた画は、思ったほど濃厚ではなかったが、二人の突き詰めた料理人がさらに前を向いている感じが表せればよかったということなのかもしれない。

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