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「真夜中乙女戦争」この世の終末に孤独な池田イライザはもっと美しくあるべきでは?

池田イライザが出ているので観に行ったと言っていい。「真夜中乙女戦争」という題名はなかなかそそる。同名小説の映画化。東京破壊という狂気の題材をどう映像化するかというところが映画の見どころ?ラストに流れる主題歌はビリー・アイリッシュ。こういうところにお金を使うのは悪いとは言わない。まあ、終末観みたいな雰囲気を出すには良い歌声だし。私も、瞑想をするように彼女の音に声に聞き入っている時がよくある。そして、この話に表現されるような世の中に生きる無力感見たいなものにはぴったりの主題歌ではある。ただ、それがエクスタシーに達するには映画自体がもっと心の奥底のスイッチを入れるようなものでなければいけないような気がする。

監督、二宮健は昨年「とんかつDJアゲ太郎」を発表。作品の出来はともかく、なかなか面白い映像世界を構築する人だと思った。だが、何かもう一つ心の奥底のスイッチを叩いてこないという印象を持った。そう、この映画も同じ次元にある。題材がなんであろうと、やはり多くの映画の中に埋もれてしまわないように、監督自身のオーガズムみたいなものが観客に伝わるものが欲しい気がした。

とにかく、主人公、永瀬廉には特に「何がしたい」ということがない。そして、その無力状態に共感を覚えるのか、近づいてくる池田イライザ。金には困らないが、生きている意味に枯渇し、破壊だけにエクスタシーを感じているような柄本佑。この3人の現代への嗚咽みたいなものがこの話のテーマなのだろう。そして、そこに共感するものは山のようにいるという世界。まあ、それは間違ってはいないが、破壊や破滅はそこでピリオドでしかなく、能動的な世界ではない。その行動に「乙女」とつけたところで可愛らしさはない。そして「戦争」というからには、「ろくでなし」のやることである。まあ、この日本国は、戦争をしなくなって「ろくでなし」でなくなる道をとったものの、戦争をしたがる「ろくでなし」は増えるばかりだから、こういう自己破壊もまた戦争と呼んで良いのだろう。

池田イライザが最後で歌うシーンはなかなかエロティックではあるが、エロくない。永瀬との最後の逢瀬で、「私を抱きたい」という言葉の答えに永瀬は「そういうことじゃない」という。イライザは抱きたくなる女ではないのだ。でも、東京が破滅する前夜だぞ、そこで抱きあえば、何かの未来に昇華できるような気もする。そう、SEXは無意味なように見えて、その場で大きなエネルギーを起こす行為だからだ。そういう欲望など全て否定しての東京破壊に意味を持たすこともないのだろう。柄本は永瀬と一体になる寸前に殺される。男が男に愛を感じ、殺めることにエクスタシーを感じる世界が描きたいなら、もっとサイケデリックに、もっとエキゾチックに映像を振り回すべきではないか?

最後に燃える東京の中で東京タワーが象徴的に起つ図が、いまいち美しく描けてなかったことがこの映画の最も大きなミステイクな気がする。そのタワーの中にイライザが一人いるのはとてもエロいけどね。

というか、池田イライザをもっと映像の中で美しく描けなければ、永瀬が好きだという東京タワーのようにエロティックに描かなければ、この映画は作った意味がない気がした…。


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