「海のはじまり(第10話)」子供の記憶のありかへのこだわりと、変化への順応性
ある意味、贅沢なテンポの遅さのドラマである。あとこの回を入れて3回。夏と海の二人の生活の未来に明るさが見えるまでのドラマということなのかもしれない。
今回は、海が夏と一緒に住んで、海の学校も転校を決めるまでの話。そう、担任の山谷花純が言うように、子供のゆっくりとして毎日が刺激的な時間の中で、その毎日の記憶を刻んできた環境というか風景は重要だ。私も転校経験があるが、慣れ親しんだ景色がなくなることが最も悲しかったかもしれない。作者も転校経験者なのだろうか?そんな気がする。
そして、最後に海はそれなりの覚悟で夏と一緒になることを決める。そこで友達になった弥生との会話は大切なことだ。よくわからないが、弥生の言葉が海にはかなりの力になっている。最初の方で書いたが、やはり弥生は夏の仲間ではなかったのですね。でも、春が無いと夏はやってこない。そんな理屈も感じる。
夏が海と暮らすということで、祖母と祖父はやはり戸惑う。今まで普通に可愛くて仕方なかった孫との生活が終わるのだから。でも、それは、今の普通の生活では当たり前か?今回は特に祖父の利重剛の戸惑い方が面白かった。そういう中で、夏は転職することも考える。だが、やはり仕事を変える勇気はない。特に今の時代の環境ならこうなるだろう。
そんな中、海が、苗字が変わることをあっさり受け入れることは意外だったが、今回の冒頭に、水季が苗字が家族が一緒である証みたいなことを言っていたのを見たので、それは必然か?学校も変わるし、からかわれることはないものね。どちらにしても、普通に落ち着くところに落ち着いた感じ。ある意味、脚本家は夫婦別姓的な家族で違う苗字を名乗ることには不自然さを感じるということだろう。まあ、私も戸籍上の苗字というものは今のままでいいとは思う。そこに加え、仕事上の名前もあっていいし、個人がどんな苗字を語ろうと問題ではない。ただ、個々が苗字でストレスを感じるようなことはないように社会が色々受け入れるべきだと思ったりする。この辺りは法で決めることでもないだろう。葬式の時に夫の苗字が嫌ならそれ以外でも問題はないと思うし、色々と縛られる問題ではない。
今回は、夏と海が親子として一緒に生活することを決めた回だ。いろんなハードルを超えて、周囲が皆、それを承知した回とも言えるだろう。そして、夏が実家に色々と手伝って欲しいと言いに行くのも当たり前だが、なかなか良いシーンだった。その前に弥生がそこを訪ねて「ごめんなさい」を言いにくるという流れも、フィクションとしての面白さを感じた。
あくまでも、このドラマは、重いとか軽いではなく、「家族」とは何かを問うドラマなのだろう。そして「子育て」とは何かを最後に語るような次回予告。色々あろうが、夏の周囲の人々に幸あれと思わせてもらえるのは素敵なことだと思う。