「君といた108日」ある意味、古典的な話だが、聖い神の表現に美しさは感じる
大学で巡り合った彼女が、がんの闘病の末なくなって行くという、昔からよくある闘病と儚い命の物語だ。だから、「なんだ」というような批評をする人も多いだろう。かと思えば、「泣いてしまったよ」という人もいるかもしれない。なぜに、この映画を今作るの?という疑問がある人も多いかもしれない。
でも、まずは、この話はジェレミー・キャンプという歌手の実話である。そう、こういう経験のある人は、こういう物語の数ほどあるのかもしれないが、その末に、亡くなった彼女の存在がより大きくなったという感じのラストは、年の初めに見るには、それなりに爽やかさがあった。
そして、それを演じる役者たちも、アクがない感じで、映画を撮る側もそれを美しく撮ろうとしている空気感は十分わかる演出。結果的には、観客に優しく、神に感謝して、自分の生きている意味をしっかりと理解しながら生きていこうというテーマを刻もうとしているのは良くわかる。
まずは、冒頭、主人公が家族から離れ、大学に一人で向かうことになるシーン。主人公が家族に対し愛し愛されていることが良くわかるシーンだ。障害を持つ弟に携帯をプレゼントして、「いつも繋がっているぞ」と伝えるとことか、最後に家族が彼に新品のギターをプレゼントして送り出すシーンで、彼の人間性みたいなものを見せていく。まあ、こういう描き方に不自然さを感じる人にはついていけないかもしれないが、それはそれなのだ。とにかく、優しさに素直な映画だと言っていい。
そして、キャンパスで、リスペクトする歌手にあい、ステージに上がる機会を得て、客席にいる彼女を見つける。まあ、出来過ぎの出会いのシーンである。だが、こういう奇跡は、能動的な行動からしか起きないと考えれば、彼の積極性みたいなものがこのシーンで簡易に表現されているのだ。そして、そんな彼を遠回しに誘ったりする彼女の流れもスムーズ。
まあ、この恋愛の最大のハードルは、彼をステージに上げた歌手も彼女を好きだったというところなのだが、それも、彼女の心がまっすぐに彼に向いていたことで、特に大きな障害にはならなかった感じ。そう、ここに出てくる人々は、皆いい人であり、彼らの恋愛を拒む壁はほとんどないのだ。だからこそ、彼女の死というこの映画の顛末が悲しくも美しく昇華されるのだろう。そこが、偽善だという奴には、言わせておけばいい作品だ。そう、そういうこそばゆいような映画をちゃんと形にすることもまた、結構、大変だよなと私に思わせた。
彼女の信仰心、星と命のシンクロ、みたいなものを綺麗に描いている。そう、形なくとも、わたしたちを作った創造主、エネルギーみたいなものは確実に存在するわけであり、わたしたちが生まれて、今ここに存在しているという意味も必ずある。つまり、この映画のような納得できない別離もまた同じように、何かしらのエネルギーのなせる技だと私たちは処理して生きて行くしかないのだ。そして、短い人生の中でも、多くの人に何かを与えられたなら、それは生きていた意味があったということである。時は流れ、その中で、人は生まれ、人はなくなる。だが、奇跡的な逢瀬の中で、我々はいろんなことを感じ、表現し、多くのまた別の人の心を動かすのだ。
ここで、示される物語は、今まで何度も見せられたものの一つではあるが、年の初めに、ちょっとそういう当たり前の生きている意味みたいなものを感じさせていただいた、美しい映画であった。
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