大阪の中心地へと、声が枯れるまで「家族の絆」の大切さを叫びに行って思ったこと
2020年9月21日。第3回ウォーキングフェス大阪御堂筋、通称「オレンジパレード」というイベントに参加するために開催地・大阪に行ってきました。
このイベントはというと、難しくいうならば「連れ去り」という違法行為によって親子断絶された(親子関係をバラバラにされ会えなくされた)人たちが、それを可能にしている「単独親権制度」に意を唱えて「共同親権化」に向けての声を挙げるというイベントです。
うん、難しいですね^^;
もうちょっとマイルドに表現するなら、子どもに会えなくされたお父さん・お母さんたちや、一方の親に会えなくなった子どもたちが全国から集結して、「会いたくても会えない。それっておかしいっすよね」という声を挙げる!というイベントです。
「会えない」という苦しみの深さは無限大
家族に会えないという苦しみは想像を絶するものがあります。こればかりは体験しないとわからないでしょう。子どもの場合、たとえば3歳から15年間会えないと想像してみてください。3歳の子どもはすでに大学生です。当然、別人のように人は変わっていきます。3歳では本人の記憶もほとんどありませんから、子どもに自分が「親」だという認識すらされません。
こんなつらいこと、あるでしょうか??
子どもの立場でもその苦しみは同じです。むしろ、それ以上の苦しみがあるといっても過言ではありません。親の顔を知らずに育ち、一緒に住む親からは、顔も知らない親のことを「あの人はお前を捨てた!」「あの人はどうしようもない人だった」などと聞かされて、それを否定しようものなら不機嫌な顔をされる。場合によっては平手打ちが飛んでくる。生きていくには、その意見に同調されることを余儀なくされ、反発すれば平気で虐待を受けたりするわけです。
学校での行事や、友人との会話のなかで親の話になることは無数にあります。その度に、自分は顔も知らない、親の生態も知らない状態で会話に入ることなどできず「残念な人」というレッテルを貼られて生きていきます。何の罪もない子どもがそんな思いを抱えながら生きていくのはとても大変なこと。ここでつまずいたことがキッカケで一生の命運が左右されてしまう、そんな人たちをたくさん見てきました。
親の勝手な一時の感情で、子どもの一生はすべて奪われてしまうというのが今の日本に根深く横たわっている現状なんです。
「これじゃダメだ!」と思った街の静けさ
今回のまとめについては何回かに分けてレポートする予定ですが、まずはメインであるパレードについて書いていこうと思います。
パレードに参加した人数は総勢170名ほどだったと聞いています。当事者がほとんどでしょうが、様々な立場の方が全国から集まっていました。大阪市役所前に14時からスタートしたパレードは最初、沿道の人もまばらで土地勘のない私としては不安でした。
(⬆️出発地はきれいな中之島公園から)
「えっ、このコースってこんなに人がいないの!?!?」
おそらく私以外にも同じように思った人はいたと思います。実際、パレードの途中にそのような声が漏れ聞こえてきました。でも、一緒に歩いていた人いわく、そこは「オフィス街」とのことで人がまばらなのも当たり前のことだったようです。東京でいうならば東京駅前の丸の内のような場所とのこと。なるほど。
そのためもあってか、わりと歩きながら和気あいあいと当事者同士で語り合いながら道路を練り歩く、そんな時間が少し続きました。正直私も、このパレードに参加した目的は「知り合いを増やすこと」でした。自家製のメッセージボードを両脇の通行人に見えるように掲げながらではありますが、やはり知り合いの当事者と話をしながら歩いていました。
もちろん、「楽しく歩こう♬」がこのフェスの趣旨でもあるわけですから、なんらおかしいことではありません。でも、私は一人でどんどん焦りはじめていったのです。
「自分は楽しい、でも、このままゴールまで歩いたとして私はいったい誰に何を伝えられるんだろう?」
「大阪まで来て、私は自分が満足してそれでいいのだろうか?」
その答えはすぐにでました。違うよねって。
私はいま大きな「障害」と闘っています。命を賭けて闘っています。そのためには仲間は絶対的に必要です。喉から手が出るくらい仲間や理解者がほしいし、そのために毎日限界まで生き抜いています。
でも、「あなたのために」という気持ちを忘れたら私が私でなくなるし、誰かを救うこともできないし、自分の掲げる大きな目標がとたんに「はりぼて」になってしまう。そんな気がしました。
大阪パレードの静けさは、かつて私が持っていたはずの「初心」と、いまちょっとだけ理解者を得たことによる「慢心」を、合わせ鏡のように私に写して教えてくれました。
みんなはあの最初の数十分の「街の静けさ」をどう感じたかはわかりません。でも私にとってはあまりに大きいものを思い出させてくれました。
なぜ「こんにちは!」と「ありがとう」を連呼したのか?
「自分は今日参加した人のなかで、一番たくさんの街の人に声をかけた当事者になろう」
そう決意しました。歩き始めて20分くらい経った頃でしょうか。まだ人がまばらななかではありましたが、人が見えたら「こんにちは!」と声をかけることにしたんです。
次第に繁華街に近づき、カフェなどが見え始めます。先頭には注目を集める街宣車(という呼び方が適切かどうかはわからないけど)もありました。でも、この街宣車に甘えてもいられません。
最初は声出しも甘く、すぐ横の歩道を歩く人には届いていたもののカフェなどにいるお客さんや道の向こうにいる人には届いている気配はありませんでした。そして思います。
「このままじゃいけないな〜。でも、若輩者の自分が周りを差し置いて声をあげていいのかしら?」
でもでも、やっぱり届けなかったら大阪まで来た意味がありません。そのときの私は、そう考えるようになっていました。
だんだんと声を挙げることが平気になってきました。まずは、「こんにちは!」という声とあわせて「ありがとうございます」と声をかけることにしたんです。その理由はいちおうありまして、人が突然声をかけられて関心を持ちやすいのはこの「こんにちは!」と「ありがとう」という言葉だと言われているからです。
こんにちは=声をかけられてつい振り向いてしまう言葉
ありがとう=感謝されていったい何だろうと興味を持つ言葉
だから選挙などの演説では必ず、この「こんにちは」と「ありがとうございます」という言葉が飛び交うと言われています。さらに言えば「●●(地名)のみなさんこんにちは」ということで興味を引くのが一般的です。私もそれをならい、
「大阪のみなさんこんにちは!」「ありがとうございます!」
と声をかけることから始めました。
大声で叫び続けて感じたこと
その効果はすぐに現れました。声を掛けられた沿道の方々が振り向いてこちらを見てくれるようになったんです!!やはり声かけの効果は偉大です。声をかけて興味を持つ人がいるからこそ、飲食店の呼び込みも成立するわけですからね。小さな手応えを感じました。挙げる声にも力が入るってもんです(いえい!)。←
そこで私は「大阪のみなさんこんにちは!」と「ありがとうございます」を繋ぐ言葉として関心を持ってもらう内容を考えました。その内容は以下のような感じです。
【声かけシリーズ(一部抜粋)】
「私たちは愛する家族を不当に引き離された当事者の集まりです」
「会いたいのに子どもに会えない、会いたいのに親に会えない、そんな悲しみを私たちは毎日背負って生きているんです。想像を絶する苦しみなんです」
「大阪のみなさんに知って欲しくて、全国からこの地に集まってきてました」
「少しでもいいので見てください。少しでいいので話を聞いてください。そしてちょっとでも気になったらネットで拡散してください」
「大阪にも被害者の方々がたくさんいます。大阪の被害者をゼロにしたいんです」
「あなたの周りにも必ずいます。そんな被害者を私たちはなくしたいんです」
などなど。
知っている人からするとなんてことはないのですが、いわゆる広告のキャッチコピーと同じで、人が関心を持ちたくなるフレーズをなるべく盛り込んだものを道中考えました(上記の強調部分がそれに当たります)。
もちろん、みなさんの「共同親権お願いします!」という声には「お願いします!」と叫んだり、聞いてくれたら「ありがとうございます!」とこたえたりと、自分の言いたいことだけではありません。一体感が大事ですからね!
ただ、私が発信する声としては、なるべく通行人の誰でもわかるような内容を心がけました。ときには歌っているように声を出し、ポップな感じで声をかけ、手を振りながら声をかけ、スキップしながら声をかけたり、踊りながら声をかけたこともありました。「高島屋に並んでいるみなさん〜」などと店名を入れて声をかけたり、色々と試してみました。
言葉を変えると注目してくれる人が変わることを実感しました。チャレンジしないとわからなかったので、声を出し続けてよかったなと思います。特に繁華街においては「声をかけたもん勝ち」みたいなところがあるなと思います。まずは注目してもらってナンボのもんじゃい!でして(笑)、繁華街になるほど道ゆく人もこういったパレードやフェスに抵抗感がなくなります。街では色々なイベントが日々行われていますからね。加えてそこに集まるような人たちは「感度」が高い人が多い。
渋谷のパレードのときにも感じましたが、そういう人には響きやすいなと思いました。ただし、「自分とは関係がない」と思わせるのではなく、「これ知ってる!」「自分にも関係あるかも」「あいつのことかも」などとイメージさせて関心を持ってもらうことが超大事! その積み重ねできっと周知活動も進んでいくのだろうと思います。
りんごサワーの爽快感に心地よい痛みを伴って
おかげで懇親会に参加する頃には立派にのどがやられていました。ここでたくさんの人に挨拶せねば!と思っていたのであまり飲み過ぎず、サワーで過ごしましたが、サワーのシュワシュワが喉を通るたびに小気味よくチクっとした痛みが身体に沁みました。
でも、私の声を聞いてくれていた同じ参加者の方もいらっしゃって声をかけてくれたりなど、やってよかったなと思います。
声を挙げるのは勇気がやっぱりいります。
特に、私のようにまだ知り合いも少なく、若輩者であればなおさら目立つことをして周りや主催者さんの輪を乱すわけにはいきません。でも、どんな参加者だって思い思いに声を挙げてみていいんだなって思ったんです。
もちろん声を挙げる人が偉いとかそういうことではまったくなくて、それぞれの参加の目的、役割、参加の仕方があって、ただ歩くだけでももちろん立派な参加者です。列の誘導に徹してくださった方は私ができないことをしてくださっています。
ただ、あくまで一人の参加者としての立場で思ったことは、声を挙げることで自分の気持ちや思いを届けることの難しさや大切さ、届いたときのうれしさ、それらを体験できるのは声を挙げた人の「特権」だな〜と感じたんです。
声を挙げることは特殊なことじゃない。ましてや恥ずかしいことでも、「うまくやらなきゃいけない」ことでもない。
自分たちが楽しんでやっていいんです。好きにやっていいんです。
毎日毎日、私たちは闘っていて、私自身も笑うことなんて24時間中1分もないような活動&闘いの毎日です。でも、いつか来るあの日のために、いや、いつか「掴む」あの日のために、私たちは希望を捨てず、その希望に向かってずっと希望の道を「歩き続け」ていきたいと思います。
今回はパレードの記事を中心に書きましたが、それ以外の部分についても書いていきたいと思います〜。また来てね♬